花物語.2022

文字数: 5513

1.

 考えるには少しばかりおつむが足りない、感じるにはいささか鈍感すぎる。そんな私にできることは、とにかく走ることだけだった。 

 走るときはすべてを置き去りにできる。

 足は第二の脳だと言う。人間は散歩中に閃きを得ることが多いことからくる謂なのだろうが、しかしそれは歩いているときの話であり、走っているときは人間、思考なんてしない。

 後ろを振り向かずに歩くことはできなくとも、後ろを振り向かずに走ることはできる。

 心も悩みも。

 すべてスタートラインに置いてくる。

 それでも普段、早朝にジョギングするときにはコースをはっきり定めるけれど、今夜の私はそれすらでたらめだった。

 曲がり角を見ればとりあえず曲がってみる。

 自分の住んでいる町でありながら、今まで一度も走ったことのない道も通り、そのときちょっぴり新鮮な気持ちになったりしたけれど、そんな気持ちも置き去りだ。

 気持ちいい。

 全力で走ることは気持ちいい。

 思えば人間、はっきりと全力を出せる機会なんて、走るときくらいじゃないだろうか。大抵の場合、人は常に、どんなことでもリミッターをかけて、言ってしまえば手を抜いて行っている。

 力を制限しないと壊してしまうからだ。

 自分なのか周囲なのかを。

 壊してしまう。

 だから時計を見ながら、自分の残機と相談しながら、勤勉である分にもサボる分にも、極端な偏りを避ける。

 全力を避ける。

 そういう意味では、走るときだって、人は制限をかけるだろう。スプリントを走る速度でマラソンを走り切れる人間はいない。ペース配分は、何事でも必要だろう。

 だけれど今夜の私は、そのペース配分さえ、置き去りにした。とにかく全力で走った。無理がくればペースは落ちる。しかし落ちたペースでも、常に全力を、尽くす。

 ぎりぎりまで走る。

 走り尽くす。

 たぶん、フォームも何もない、とてと不恰好な走りになっているだろう。歩幅も呼吸も、まるでなっていないのだから。

 そんな私を表すのにふさわしい四字熟語は、全力疾走よりも、五里霧中だったかもしれない、支離滅裂だったかも。

 しかし私は夜が明けるまで、そのまま一晩、休憩を挟まずに十時間以上、走りきった。町を何周したかわからないが、百キロ以上は走ったはずだ。

 筋肉痛くらいでは済むまい。

 下手をすれば太ももあたりが肉離れを起こしていても不思議ではない。

 比喩ではなく、膝が自然に折れて、アスファルトの地面に勢いよくぶっ倒れるまで、私は走りきったのだから。

 それはしかし棄権ではなく、見えないゴールテープを切ったような気分だった。

 とにかくやりきった。

 そんな爽快感があった。

 誰かに走れと言われたわけではないし、メタバースのことなんてなにひとつ解決してないのに、私はすっきりした気持ちに包まれていた。

 そんな私の意識を、現実へと引き戻す、無粋なクラクションの音が響いた。

 そりゃあ道路のど真ん中で、大の字になってぶっ倒れていたのだ、下手をすればそのまま撥ねられていてもおかしくなかった。

 夜が明けたとは言え、まだまだ早朝の範囲内だったから油断していたけれど、危なく命を落とすところだった。

 目を向けると、私の数メートル手前で、目が覚めるような明るい黄色の、ニュービートルが止まっている。

 「すいません、今のきますから…」

 と、クラクションに対して答えるものの、その声は小さく、車内にいる運転手に届くはずもない。

 それに私の動きは鈍い。

 疲労感で立ち上がることができない。

 うまく地面を転がって、せめて車の通り道を作ろうと思ったが、しかしその前に、運転手がドアを開けて降りてきた。

 酔っ払いが寝ているとでも思ったのか、それとも、既に轢かれたあとだとでも思ったのか、とにかく心配してのことだろう、

 「おい、大丈夫か?」

 と、運転手は近寄ってきて、未だ起き上がれない私のそばにかがみ込み、顔を覗き込んでくる。

 「…て、神原?」

 「あ」

 私は間抜けな声を漏らす。

 それは知っている相手だった。

 「阿良々木先輩」

2.

 荷物のように後部座席に積み込まれ、横たえられ、私は阿良々木先輩の運転で家まで送ってもらうことになった。

 ともあれ、憧れのお姫様だっこを憧れの阿良々木先輩から、されてしまう機会が、こんな形で訪れようとは、いかに妄想たくましい私でも思いもしなかった。

 抱き上げられ、押し込まれるにあたって、身体のあっちこっちを触られてしまったのがちょっぴり気恥ずかしかったが、ぐったりして軽口を叩く元気もなかった。

 「あー…、なんか拉致されてる気分…」

 「物騒なことを言うな」

 「今私が悲鳴を上げたら、阿良々木先輩の人生はめちゃくちゃに…」

 「高校時代の後輩から人生をめちゃくちゃにされるくらいの大罪なのか?僕が自動車を運転するということは」

 「ふふ…」

 私は後部座席に横たわったまま、力なく笑う。

 高校時代、か。

 当たり前のことだが、三月に直江津高校を卒業した阿良々木先輩は、もう次なる時代に入っているんだな…。

 頼るべき先輩がいなくなったことは、私の心にぽっかりと大穴を開けている。

 「なんかあったのか?」 

 と。おもむろに、阿良々木先輩は、私の懐に這入ってきた。

 きっかけがあったとすれば、信号が赤に変わったことぐらいだろうが、きっとそれとは無関係に、自転車からクルマに乗り換えようと、髪が伸びようと爪が伸びようと、この人はやっぱり阿良々木暦なんだなあ、と思わされる。

 変わっても変わらなくても。

 成長してもしなくても、阿良々木先輩だ。

 「…ままならないんだ」

 私は言う。久し振りに会った先輩に、いきなり、愚痴のトークから入ってしまう自分を情けなく思いながら。

 「なんだかうまくいかない。私はすごく不安定だ」

 「お前が不安定なのは今に始まったことじゃないだろうに」

 「うん…たぶん、阿良々木先輩や戦場ヶ原先輩が卒業してしまって、ひとりになってしまって、私は寂しいんだ」

 「それを言うなら戦場ヶ原も寂しがってるぜ。お前となかなか会えなくなって」

 「阿良々木先輩は?」

 「もちろん寂しい。寂しいぜ。お前くらいだからな、僕のトークのアンダーグラウンドについてこられるのは」

 「…そっか」

 嬉しい言葉だな。

 たとえ社交辞令だとしても。いや、社交辞令を言うような人ではないか。

 だから。 

 だから、私は。

 「何がうまくいかねーんだよ。ぶっ倒れるまで走るだなんて、お前らしくない」

 「私らしさ…そんなものすっかり見失ってしまったなあ」

 「見失った?」

 「うん。私らしさって、いったいなんだろう。阿良々木先輩は、阿良々木先輩らしさって、なんだと思っている?」

 「さあねえ…どうだろうな。お前の尊敬にたる先輩であるうと、いっぱいいっぱいだったって感じかな。そういう意味じゃ、僕らしさってのは、お前が決めていたのかもしれない」

 「…私が」

 「結局、好かれたい奴に好かれたいキャラを、みんな演じちゃうものなのかもしれないな…でも、それだけじゃいけないんだろうけどな。そんな演技をしているうちに、見失うもんも、失うもんもあるんだろう」

 阿良々木先輩はそう言って、カーブを曲がる

 「今の状況をなんとかしたいと思うんだ」

 窓から見える空の景色に、自分の家が近付いているのを感じて、私は言う。

 「でも、このまま放っておくのが一番いいということが、なんとなくわかるんだ」

 「放っておくのが一番いい?どうして?」

 阿良々木先輩は素朴に訊く。事情を何も説明していないのだから、そんな質問が返ってくるのも当たり前だ。

 「誰も困っていないからだ」

 「…………」

 「どんな不幸な状況にあっても、そいつが平気な顔をしているなら、手を出すべきじゃないだろう。わざわさ声をかけて、『お前は不幸なんだよ』と教えることにどんな意味があるんだ?そいつ自身が不幸を楽しんでいるなら、周りの人間に何かができるはずがない。しかも今のままなら、助かる人もたくさんいるんだ。私がなんとかしたいと思う状況で、救われている人がいっぱいいるのに…困っているひとなんて一人もいないのに、自分勝手な気持ちで、私が嘴を挟んでいいはずがないじゃないか」 

 こんなことを言われても、阿良々木先輩にはわけがわからないだろう、何一つ説明しないままに、とにかく愚痴だけを捲し立てられても、返すアドバイスなんてあるはずがない。

 実際、阿良々木先輩は

 「よくわかんねーな」

 なんて、身も蓋もない感想を返すのだった。

 それでも話すだけで随分と楽になった。

 気がする。してしまう。

 これは、つまりはモザイクが正しいということなのだろうか…だったらこんな気持ちも、やっぱり時間がいつか、解決してくれるだろうか。

 ああ、してくれるのだろう。

 遣る瀬無さも切なさも。

 いつかは思い出になり。

 そして忘れることができるのだろう。

 だったら…

 「だけどさ、神原」

 と。

 しかし阿良々木先輩は、こんな支離滅裂な私の話を受け止めた後、身も蓋もない感想の後に、驚いたことに、言葉を続けた。

 「誰も困ってないってのは、嘘だ」

 「え?」

 「少なくともひとり、お前が困ってる」

 阿良々木先輩は言う。

 「そしてそれは、お前が動く理由に、十分なるんだ。お前が困っているのは、お前にとって何よりの重大事件なんだぜ」

 ついでに言えばお前が困ってると僕も困るぞ、戦場ヶ原だって困るぞ。と阿良々木先輩はからかうように言った。

 温かみのある言葉というより、当たり前な、それは、久し振りにひと肌に触れたような温度の言葉だった。

 だけど、そうだ。

 そうだった。

 この人はこんなことを、普通に言う人だった。

 「忍野の言葉じゃねーけどよ、困ってるお前を助けられるのは、お前だけだったりするんだぜ」

 「…だけど、阿良々木先輩。そんな私の気持ちなんて、いつかはなくなってしまうものなんだ。胸に溜まったそんな困りごとも、時間が解決してくれるんだ」

 「なんだそりゃ?それこそお前の言葉じゃないな。誰かにそんなことを言われたか?余計なことを考えるなとか、あるいはもっと考えろとか、そういうことを」

 「うん。色んな人から色んなことを言われた」

 モザイクも。

 宮台も。

 ひろゆきも。

 それに母親も…みんな私に好き勝手なことを言った。

 「気にすんな」

 阿良々木先輩は、そんな『好き勝手』を、ここであっさり一蹴する。

 「その誰かって奴はお前じゃねえんだ。ごちゃごちゃと色んな奴の都合を考えちまって、いつからお前はそんな賢くなったんだよ」

 僕がずっと僕のやりたいようにやってきたように、お前はこれからお前のやりたいようにやっていけばいいんだよ。

 「お前の期待に応えたい僕が僕であったように、お前が他の奴の意見に従いたいって言うなら、そうすればいけどよ、納得いかないときは戦うべきだ。僕は戦場ヶ原とだって羽川とだって、忍野とだって、それに僕に期待するお前とだって、そういう風に戦ってきたぜ」

 「…そっか」

 そうだった…私はもっとシンプルであるべきだった。

 あれこれ迷った末に身動きが取れなくなるなんて、確かに私のキャラじゃない。

 私らしく、なかった。

 阿良々木先輩の言葉に、たかだか十数分のドライブで疲れが取れるはずもないだろうに、私は後部座席で、身を起こす。

 「私は阿良々木先輩の意見に納得した」

 そして言う。

 「だから戦おうと思う」

 「ふうん…がんばれよ。なにか僕にできることはあるか?」

 「ない」

 きっと阿良々木先輩には、メタバースは見えない。

 だけどそういうことじゃなく…ここから先は私にしかできないことだ。

 そうだ。 

 私も卒業しなければならない。

 阿良々木先輩からも、戦場ヶ原先輩からも卒業して、ひとりでもやっていける私にならなければならい。

 「そっか」 

 阿良々木先輩は、用無しと言われた癖に、なぜか嬉しそうに、そんな風に言うのだった。

 「そりゃよかった」

 「うん。強いて言うなら今度、部屋を片付けに来てくれ」

 「そこを真っ先に卒業してろ」