超AR時代の美術論.

文字数: 4979

   お前誰だよw

 って書かれることがよくある.

一方で心底気持ち悪いが、古田さんは天才ですという長文を送ってもらうこともある.

恐ろしいことかもしれないが、アンチの指摘と信者の指摘は同じであり、両方の言っていることを聞かないことが大切だ.なぜなら、どちらも文脈のゲーム、ひろゆきの言う通りあなたの感想ですよね?にすぎないのだから.愉快なのは、論理を崇高し遂行する西村博之のファンは大多数いるはずなのに、相手を論破するという極めて恣意的な快感までもあなたの感想ですよね?と己をプレゼンツに論破しないことである.

よく知らない人だなぁ と よく知っている人だなぁ.

ここで難しいのが、よく知らないとよく知っているという言葉の意味は一見すると反語のように聞こえるが、AR人類史で初めてであろう拡張現実時代には当たり前の言葉だからである.

今までは皆が同じ方向に同じ好きなものがあったり、同じ嫌いなものがあった.典型的なのが、美空ひばりや上を見向いて歩こうなどの戦後中流幻想前期であり、歌手や歌などだろう.

しかし、総1億批評家時代、誰もがスマホ1台で表現者になれる時代には、有名人ですら意味があるのか?という話になってしまう.

たとえば、人の時間は有限で、ひろゆきが人気ユーチューバーだったと言われても、総100000000人の中の1000000人しか登録していないとも言える.

 乱雑さを帯びるソフトネスは、量を帯びるが、そこにあるのは、量よりも、ひろゆきがあのキャラクターをやり続けたいという自然体の方が重要だと分かってくる.

  より、ここで議論のたたき台になるのは、東京大学という質の乱数系だ.

量がひろゆきだとして、質として東京大学に入ってから、量のユーチューバーを目指す戦略が存在しない統計的な平均値的な短期合理の戦略系、よくある理解だろう.

しかし、東京大学に入ってしまったら、ひろゆきのようなふざけたキャラクターは不可能に近い.なぜなら、質を重視してしまい、および、真面目になりすぎてしまい、ひろゆき的なアーティスティックは失ってしまったことを意味する.

では、ここで成田悠輔という東京大学出である真面目なのにおふざけなキャラクターがいいかと言えば、もちろん良いと思う.

結局、何を言いたいかと言えば、よく知らないとよく知っているは、本質的ではなく、量か質なのかも重要ではなく、お前が何者かなのか、粛々とやっていこうということなのである.

たとえば、あすぺるぐというインフルエンサーがあるが、フォロワー数は2000人しかいない.

しかし、発達障害なのに慶応義塾大学、かつ気持ち悪いという強烈に独特なキャラで受験ユーチューバー界の腫物的なポジションを獲得し、ひろゆきからも説教されたり自分らしくそして界隈では好きな人はいないと思うけど、乱高下な人生を描いている.

ほかにも、人生という一橋系ぼっちユーチューバーがいて、あまりに中身がなくつまらなすぎる意味不明な動画をあげたり、逆精神病院という医科歯科ユーチューバーを指したかのようにオウム真理教だと指摘したりなど、もちろんあすぺるぐも人生も両方とも超エリートだが、彼らが自虐する通り、陰キャは当然であっても、そこには様々なドラマや美があるし、様々な陰キャがいる.完全に幸福なのか、完全に不幸なのか、ということは、複雑系すぎる現代の総1億批評家時代、厳密にはARとより細部まで見えるようになった複雑系の現代でおいて、意味はなさないのだ.

量の最適解エリートのひろゆきか、それとも、質の最適解エリートの成田悠輔なのか.

しかし、もうオッサンでこれから先の人生は確定されてしまったのではないか、および、彼らのようにジョーカー、極めて相対主義的なキャラを演じることが、いや演じていないと思うけど、本当に芸術、いや、全員がやることなのだろうか、という話になってくる.

有名人とは、非有名人というキャラクターがいるから、存在するものであって、むしろ有名人が増せば増すほど、非有名人の存在価値や市場価値は上がってしまう.

以前、どこかで書いたり話したが、現代の評価経済は株価と同じということだ.

空売りやポートフォリオこそ重要であって、複雑系時代には、本当に好きな人も本当に嫌いな人もいないかもしれない.

東谷義和という暴露系ユーチューバーは、典型的な評価経済の投資家であり、もはや有名人か非有名なのかという命題よりも、為替として楽しむものにゲームは移行しているのだ.

何を言いたかったと言えば、

 他人と比べるゲーム,

他人と比べるゲーム、他人のゲームから自分がどうしたいか?をとことんまで追求して、しかし自己責任で、という自分のゲームへ世界がスライドしていることだ(©落合陽一).

そこに意味はなく、淡々とやる、しかし、ちゃんと最低限の努力はして、んで、今大事なことは、色々とアウトプットをたくさん出しながらも、お前は一体なんなんだ?をちゃんと追求することだ.

だから、大量につくコメント欄で一番重要すべきなのは、知るか知らないよりも、具体的な属性の方だ.個性経済学である.

  あ、この人、◎◎で面白いね、これこれで~という言葉の具体性が重要であり、そこでの感謝だったり、非難に正直、意味はない.

どれだけ情報量がより濃いかが重要で、そこにああ自分はこういうことなのかという答えがある.

具体的な指摘を集めていくというよりも、情報量を濃くすることだ.統計データより個性のポジションを張るべきだ.

これは量を否定しているのではなくて、もちろん量も否定しているが、ここで質と定義される、じゃあ東京大学に入れば良いという話ではないのだ.

東京大学に入る人々もみんな個性があり、人の数だけ合格の答えがたくさんある.

たとえば、浪人生もいるだろうし、むしろ男の合格法の方が女性有利になっている大学では、むしろ面白いし差別化しているかもしれない.もはや東京大学だけが大学だと思っている奴らはあまりいないだろうし、ひろゆきだけを日夜見ている奴らは統計的にいるという短期合理なミスリードの信仰なのだ.詳しくは、カオスフォレスト混沌森林3(©本を破れ!)を閲覧してほしい.

 おおざっぱに分かりやすい社会は存在しないが、個人の周りを中心には疑似社会はあるベンチャー的な社会、総1億批評家時代はみんなが主人公だよ、そして、細部まで見た方が人生の細部が見えて面白いよということである.実のところ、大学もユーチューバーもマクロというのは嘘で、マクロを徹底したがゆえに、ミクロ的な外れ値だらけ、そしてマクロも見渡せば、外れ値を捨象して理解していただけだったということになる.

    自分のゲームを追求する理由に、更に要になる話は、AR、拡張現実時代の話だ.

今はTwitterのフォローワーが10000人でも意味ないし、東浩紀といったブランドを有するのも危険になっている.

 そのような東浩紀的SNSの勘違いをメタバースという.ARに似ているが,対極的な虚しさだ.分かりやすく言えば,ブッサイクなるしあに群がりながら,しかしるしあの中の人本人は結婚できずメンヘラをこじらすAI新興宗教のことである.

なぜならば、ツイッター以外にも、シラスやインスタグラム、ティックトック、大学、会社、家族、サークル友達といった、様々な村だらけであって、1つの村に引きこもって量だけ稼いでも、一過性になってしまう.vtuberるしあはガチ恋愛やガチ結婚できなくなってしまったのだ.

ここで、恐ろしいことを指摘するが、

死のゲームということがあると思う.

AR、拡張現実をやりすぎた天国的な現代、総1億批評家時代、誰もが神のごとくメタゲームをやれる時代は、人間そのものよりもAIの方がすごいのではないか?もっと厳密に言えば、自然界の物理法則といったものがあることを人間は忘れすぎていて、次の競争、今は、むしろ死のゲームを意識する必要もある.

 暴露系ユーチューバーの東谷義和の前に不謹慎系ユーチューバーという似た人々が流行ったけど、あれは木村花や神田沙也加が自ら死んだことに起因したものだった.

 文脈のゲームから原理のゲーム、ツイッター、鳥の戯言に意味がなく、よく知らないよ、いや、よく知っているよ、に意味がない時代は、むしろ見たくないけど、人生そのものである、結婚だったり死であったり、トラウマだったり、本当に自分がやりたいことだったり、恐ろしい意味での哲学や文学、芸術だったりのプレゼンツ力はむしろ高まっているように感じる.

ボクはユーチューバーに興味がないと同様に、大学にも興味がない.

なぜなら、最低限までは取りたいが、そこは言語的に理解された文脈のゲームが多く、そこには安全はあっても、自己実現、美は少なくなっているからだ.よく知らないよ、いや、よく知っているよ、量なのか、いや、質なのかという文脈のゲームな命題は無意味に等しい.

原理的な本質.

そして,その先にあるアート的衝動.

人は生きて、死ぬんだよっていう当たり前の問題の方が実はARすぎる天国的な時代においては、むしろAI的な残酷さの方が記憶に残るし、歴史に名を刻むと思う.

  端的に言いたかったことを言えば、東谷義和の次に流行るのは、AIそのものかもしれない.

そして、ボクらが考えるべきことは、貴方にとっての美そのものは何だろうか?っていう問いだと思う.

実のところ、理系か文系か、高学歴か低学歴か、という安易なキャラは、むしろ安心できる.簡単だ.なぜなら情報量が少ないからである.情報量を圧縮する恣意的なデザインは、近代の産物であって、あくまで手段にすぎない.

 行動が先であって,言語は後だからだ.もちろん言語も大事だが,言語は手段にすぎない.

 しかも、SNSのAR化やメタバース化、現実も虚構もない拡張現実時代において,本間ひまわりっていう人気Vtuberってダレだよ!状態の現代では、自己批評までする死のゲームまで哲学したり文学しないと、ヤバイことを意味する無理ゲーではないものの、恐ろしい時代を生きているのだ(ぼくのオリンピック).死のゲームをクリアしなければ,コロナ禍がまだまだ続くと思ってしまう.

 コロナ禍やオープンレター事件、そしてウクライナロシア戦争など、治安の悪さや分断など、実はSNSのAR化はより現実の厳しさをより強調していて、SNSよりも現実の方が面白いのだという恐ろしいことを提示している.もちろんSNS、ソーシャルメディアサービスには大学や企業、ひいては家族も該当するだろう.箱のフレームそのものより、原理そのものが重要だからである.

最後に処方箋は、努力なんかしなくていい、キミはそのままでいい、その代わりそのままの責任を引き受けろっていう厳しい突き放しだ.

逆に言えば、主人公であり続けるのは、面白すぎるけれど、量も質も問われないけれど、超難しいのだ.

意外と日常を過ごし長生きするのは、難しいのかもしれない.もちろんTwitter的なものでもないし、音楽が流れているようなものではないけれど、感動はするものだろう.たとえば、ふとしたときに父の老いを感じる白髪を見つけたときに言語化できない感動がそこにあるのかも.

脱落者からどんどんとAR,最悪な方ではメタバース,作られたウソの現実に依存し、本当の自己を見つけることができなくなる.

人生に答えがないことが、本当の人生なのである.