AIの殺し方.〜古田更一の木澤佐登志大批判と東浩紀の落合陽一大批判について.〜

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 ある日、電気が止まって、スマホがない世界が戻ったら、人々はどう思うだろうか?

 現代社会がテックに対する造詣が書籍に代わる革命である一方で、

 AIそのものをどう殺すか?という視野は重要になってくる.

 根源的に言えば、

植物と動物、君はどちらも尊敬するか?という話しだ.

 今起きているのは、植物の方が動物より上というパラダイムシフトである.

 恐竜→火山噴火?→人間というパラダイムになり、

 人間を脅かすものに、いまだ自然、福島原発破壊やコロナウィルスという災害がある.

 人類はまだ完全に自然と共生していないのだ.

 落合陽一が計算機自然、デジタルネイチャーと歌うのは、小中千昭原作『テクノライズ』というディストピア・アニメにでるラスボス伽ノと同じ危険思想だ.

 人間と機械を合体させたトランスヒューマンの行き着く先は、人間が機械と同化し、植物になることで永遠の生命を獲得するという話しだった.

 植物やAI、落合陽一には、目的が欠けている.

 どうして、俺が、どのように、という動機づけのフックが欠けているのだ.

 改めて、ここで復習するが、

機械と植物は同義語だ.

 しかし、

低エネルギーの悟りが、機械と植物、ひいては宗教の悟りだ.

 それは悪い意味では、精神の死を選択することにすぎない.

 システムは使えるが、あくまで自らの魂を巧くデザインするためだけのためにあるのだ.

 植物やウイルス、スマホには、意志はない.

 AIを殺す方法は、己が魂を全開で、既存のシステムには一切頼らないことだ.

 家族に頼らない.

 国家に頼らない.

 友達に頼らない.

 宗教に頼らない.

 哲学に頼らない.

 俺様に頼らない.

 自分に由ること.

 現実問題で他人に合わせるしかないにしても、自分がまずあって他人に合わせていく困難をあえて引き受けること.

 植物は、不死だからこそ、不幸なのだ.

 官僚は、不死だからこそ、不幸なのだ.

 動物は、死ぬからこそ、幸福だ.

 が、死ぬからこそ、長く生きようと活力が湧くものだ.

 AIはディストピアである.