超AR時代のポスト仕事術。

文字数: 3210

 お金より個性。

 まず拝金主義的な発想は捨てるべきだ。

 仕事は楽しいから、やる。

 これである。

 なぜならば、現代は、AI共産主義、ひろゆきやプロ奢ラレヤーは売名しただけだが、二人などの水面下で発生した限界費用ゼロ社会、IoT、モノのインターネットが加速度的に賃金を安くするイノベーションを打ち出したり、インターネットの共生主義と3Dプリンター的発想野によって、全てが安くなったり早くなっているからである。

 具体的には、テック的な思想、SNSによって起きたLGBT運動や弱者でもいいんだよ思想、つまりマイノリティのクズたちでもマジョリティを無視してマジョリティぶることが可能になったのだ。老人も親もいない空間野で何がマジョリティであるけれど、ヒカキンは半分はインフルエンサーとしてブサイクで才能も正統派になくても、差別されないどころか、トップオブトップを演じられるのだ。

 そして、コンビニの自動レジ化などが雇用を減らす代わりに、モノをどんどん安くしてくれるだろう。

 テックに支えられた弱者たちの叫びによって、ご都合主義的に両親や国家に無倫理に頼ることは可能なのだ。

 しかし、それは、逆に言ってしまえば、自己実現のために仕事をしたいという、仕事と言えるのか?という欲求にすぎないシンギュラリティはすでに起きていて、次の世代は一生働かなくても大丈夫なメンタルを持って生まれてくるだろう。なぜなら、親が生活保護だったり親が誰かに養ってもらって生きているからだ。

 逆に言えば、仕事の問題は、哲学や文学、芸術の範疇にすぎない

 問題はどうやって、カッコよく自分らしく働くか、および働かないタフなメンタルを持ちながら、加害の責任に多少は向き合うかだ。

 たとえば、ウーバーイーツは、仕事と反仕事というひろゆきプロ奢的な極論を打ち砕く便利な仕事だろう。好きなときに働き、あとは実力性。自分の個性で働きながら、人にも感謝されて、そして、最低限の金を各人を自分の物差しで働けるのだ。

 屋台でカステラやケバヴを売っているようであり、今、人々は大企業に勤めるよりも、中小企業的なメンタルを持つようになっているのかもしれない。

 大企業は大企業で必要だが、平均的だし、自己実現するには、個性として己が社長として振る舞いたい人々が増えているのだ。生活保護の矛盾は国家に貢献する人間たちに文句を言えなくなることだ。逆に言えば、今起きていることは、倫理や哲学、文学、芸術といった余裕のあること、悪く言えば、甘えていることに、余力を使えるぐらい、日本があまりに先進国になりすぎた証拠と言えよう。

 もちろん複雑性な現代では、そんなにストレスフリーを完全に目指すのは不可能だ。

 むしろストレスがあったうえでどうするか?というプラグマティズムが重要になる。

 たとえば、

 ボクは文章を読んだり書くことだけは得意らしい。

 だから、受験も国語や小論文、AO的、英語長文といった読解と発表に特化し、あとはほとんど敗戦処理的に頑張るんだというメンタリティーで仕事も選ぶことにした。

 社会に合わせて仕事を選ぶのではなくて、自分を起点にしてから考えて仕事を選び、その代わり全ては自己責任だと考えないとならない。みんな違って、どうでもいいだ。

 皮肉なことだけど、経済市場は、あくまで経済市場なので、能力の低い人間は需要がないため、皮肉なことだけど、社会に貢献するには働くなということになる。むしろ社会と個人が正しいか正しくないか、という文脈のゲームは捨てて、社会はコイツを求めている、自分はこういうことしたい、という淡々とした事実があるっていうそれだけで議論を進めなければならない。原理のゲームだ。もちろん感情論的になるのは良いけど、相手も感情をブツケルだけなので、不毛だ。そこのコミュニケーションを排除し代替させたいから、最低限の口止め料としてBIが機能するにすぎない。

 現代の日本はGDPも28位ぐらいに後退し、今のお父さんお母さん世代、および、若者は最低の労働力で働いている無能ばかりだ。その無能はおそらくこの文章を読む貴方たち自身であり、かつてのGDP1位の日本の福祉サービスや経済力がまだあると思い、国家のせいにして社会のせいにして、文句を言っているにすぎない。

 逆に言えば、世界中で西洋的な国家のGDPは落ちているので、個人では金余りでも、セカイでは金足りなしは普通の現象である。

 逆に言えば、金で買えるベンツやフォルクスワーゲンといった見栄にかつてはお金を使うことで雇用は無限に生まれていたのであって、拝金主義や市場主義をやめるAI共産主義によって、政治によって、皮肉にも貧乏になっている国民たちの自己責任なのである。ひろゆき的デフレ・マインドだ。

 たとえば、自動レジやVtuberを加速させると短期的には便利だが、雇う人がいらなくなったり、スパチャでカネを稼ごうという乞食でメシを食えるのだといったあまりに経済を無視しすぎた非合理的すぎる所業で自己責任的に職を失うパラドクスに陥るのだ。

 オープンレターよろしく東大無理よろしく大学の権威性が問題になる昨今だが、これは嫉妬、統計ネトウヨであって、ブーメランにすぎない。オープンレターがはこびる背景には、貧しい日本の経済では政治で自己実現して他人を蹴落としたいクズが増えている背景があるからである。

 よって、社会を責めてもお互い様な面も大きい。

 人間の大多数は、女性と老人、子供、知能指数の低い偏差値50未満、そして、アートが偏差値50以上の人間たちも目指したくなったため(受験ユーチューバーやぼっち系ユーチューバーなど)、

 個性経済学的に、自分の長所と短所を明白に意識してから、長所も短所も頑張る、しかし、社会は存在しない、自己責任なんだ、というマインドセットで向かわないとならない。

 たとえば、貯金があったりメンタルタフなら働かなくてもいいだろうし、自分のキャラにあっていればなおさらだ。が、自由や更に大きくなるには敗戦処理的、ビギナーズラック的に働こうや、長所をより細かく言語化して、短所に応用する自分探しは必要になってくる。

 もちろんクチより手を動かせ!で見つかるものでもある。私は評論が得意と思ったが、それよりもアートだったり文章を書くことそのもののスピードの方があるということが後から手を動かしているうちに特化したり、気づいたりすることもある。厳密な定義は不可能で、現象to現象である。

  TwitterやYouTubeで文字を書いても、情報量が少なすぎる。だから、論理的に、そして、身体性を伴って試行錯誤で動いてみて見つけるしかない。

 およびすでに行っていることである場合が多い。普通、評論が読めるのはボクは当たり前だと思っていたが大学やSNSで話したら、どうやら得意すぎたらしいことが判明した。自分では当たり前のことが他人には凄く見えることはよくある。

 つまり、

仕事という

概念そのものは

存在しない。

 自分と相手に都合良いベストマッチを混ぜていこうと、遊びという概念も捨て去り、マインドセットすべきなのだ。

 逆に言えば、みんなが実践的に自己実現を行い、自己責任で行うという選択肢を現代人が選んだということでもある。

 日本人は実は国家も家族も友達もそんなに好きではないのだ。

 ヒカキンになりたい個人主義者たちは、みんな素晴らしく孤独だ。

素晴らしいことだ。