マツコデラックスとAdo 神に近いモノ メディアの人身御供

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少し前に、マツコ会議で、Adoがマツコ・デラックスに「暗い女ね。」といわれたことが話題になりましたね。

彼女は番組の中で「みんなが幸せになってから、幸せになりたい。」と言っていたが、個人的には、この発言はかなり危険なものだと思いました。

その理由を解説します。

まずはマツコ・デラックスという存在が、どうして今もメディアで活躍しているかを考えていきたいと思います。

マツコ・デラックスという存在がなぜ、メディアの顔になったのか、経歴を追えばそれは偶然の連続故と、言えますが、もう一つ理由があり、それは彼女(彼?)がオカマという性別を超えた存在だからというものが大きいです。

まずこのマツコ・デラックスの性別の曖昧さ、そしてルックスも人間とその間にいるような存在感があり、ある種の神秘性を生んでいて、これは男女両方の視聴者への共感を中立的な立場に置くことによって獲得できるわけですね。

現代のLGBT的な価値観の中で、少しでも性別による偏見を発言をしてしまえば、すぐに問題となってしまうこの世の中では、彼女のような性の曖昧さを持つことで、毒舌や世の中を斬ることが許されるという、ある種、社会的に弱い立場故に強い発言ができる逆転現象のようなことが起きているわけです。

イケメンな男性俳優は、イケメンであるがゆえに男性の嫉妬を産むし、可愛い女性女優は、可愛いが故に、女性の反感を買う訳ですね。そういったもルッキズムさえ乗り越えた存在が、美輪明宏であったり、マツコ・デラックスだったりするのでしょう。

上り詰めても簡単にキャンセルカルチャーされてしまう、過酷なテレビ業界でメディアで上り詰めたマツコ・デラックスですが、彼女が、幸せ者だろうか?と考えると、決してそうではない訳です。

彼女の発言を見ても、あの容姿と知名度故に、気楽に遊びに行くことだってままならない事を語っているし、彼女の性別の曖昧さ故に、自身が男女で結婚をして子供を作るといった一般的な幸せそのものがないという現実を知っている訳です。

だからこそ彼女は、怒り新党でも、有吉に、結婚相手が見つからなかったら一緒に住もうといったことを半ば冗談半分で言ってましたが、そのボケなのか本心なのか分からない哀愁は、本当の意味でLGBT的なものを考える故に、私は結構深刻な事だろうと思うわけです。

つまり、マツコ・デラックスという存在自体が、いろいろな芸能人の悩みや話を聞いて、アドバイスを送ることで、相談相手は自分を正して、ある種の脱線をしながらも既存な幸せなの形に修正可能なのだが、相談した相手、および視聴者そのものというのは、実はマツコ・デラックスそのものの幸せには関心がないのだ。

彼女はメディアの露出そのものを取ったあまりに、メディアの生贄的になった側面があるというわけです。

(もちろんこれは鶏が先か、卵が先かの問題に近いものなのですが…。)

ここで、Adoの話に戻りましょう。

私はAdoそのものは可愛いし歌もかっこよくて好きなのですが、彼女のメディアの出方事態に疑問が残ります。

彼女は新時代の若者代表といった立ち位置で、メディア露出を増やしているのだが、そもそもの話彼女は全く若者の代弁者ではないと思います。

そもそもの話、Adoの代表作である「うっせぇわ」も歌詞も作曲も別の人間がやっているんですよね。

“うっせぇわ”は気持ちのいい曲ですが、女子高校生の彼女が、社会人の悩みを斬るという構図が、何だか歪んだ構図だなと思うわけです。可愛い女の子に代弁させることを得意とするオタクカルチャーの延長線が、ついにテレビというメディアにも進出した感じがしますよね。

彼女の求められてる若者のスピーカーとしてのメディアの立ち位置を担うには、あまりに普通のオタクの女の子過ぎると思います。

なぜ、彼女がここまでメディアに出れるか、それは彼女が”安全”だからでしょう。

“オタク”、”陰キャラ”というアイデンティティ、自己評価の低さ、故メディアで発言の事故がない、若者の代表。それが彼女がメディアで使われる理由だと思います。

ここで最初に述べた、Adoの「みんなが幸せになってから、幸せになりたい。」発言は、マツコ・デラックスが陥って姿と重なると思いませんか?

マツコ・デラックスがその性別さの曖昧さ、つまりは神に近いもの、神聖なものとして、故にメディアの人身御供になったように、Adoは自身がメディアで求められるAdoというキャラクター、あまりに人が良すぎる故に、アンチさえも庇ってしまうその母性的な自己犠牲は、マツコ・デラックスそのものであり、彼女はその優しい性格故に、この先も大量のファンを獲得できるだろうが、その先の未来にあるものについても考える必要があるだろう。

自己犠牲だけでは、メディアそのもの玩具になってしまうだけだ。

若者の代表的人物、時代の”スピーカー”を考えるときに、Adoの対象となるのがP丸様。というアーティストがいる。

P丸様はVtuberで、普段は自身でマンガ動画のようなものを上げて自身でアフレコをするクリエイター気質のyoutuberで、「歌い手」の代表のAdoとは違った意味での若者のアイドルのようになっている。

彼女の普段の動画は、恋愛のいざこざ、血液型、陰キャラ陽キャラ、といった、あまりに10代的な価値観を対象としているので、あまり見ていないのですが、登録者や再生数を見る限り、爆発的な人気があるのは間違いないでしょう。

彼女はオリジナルの楽曲を出しており、個人的には、その楽曲こそが、若者の気持ちを代弁したような曲のような気がします。

そもそも論として、テレビメディアそのものを、もはや若者は見ておらず、見るとしてもテレビの違法アップロードされた動画をyoutubeで見ていることでしょう。

テレビメディアという老人メディアの若者のアイドルとして持ち上げられたのがAdoであって、youtubeという若者メディアのアイドルはP丸様。と言えるでしょう。

P丸様の代表曲が「シル・ヴ・プレジデント」という曲です。

“大統領になったら、人の男にちょっとかいかける女は島流しする” といった歌詞からわかるように、P丸様の自己肥大化とAdoの自己犠牲的謙虚さは、正反対ですよね。

ですが、P丸様の明るい曲調でポップな音楽のが実は、若者が抱える、男女の恋愛の悩み日常的な事を歌っているような気がします。

Adoの「うっせぇわ」は私には、Twitterで見かける社会人の悩みあるある、バズワードの組み合わせというか、AI的なものを歌詞に感じるんですよね。

だからこそメディア受けするのはAdoの方なんでしょうが、あまりにこのアニメキャラクター過ぎるVtuber、もはや現実とアニメが内面に混同した存在であるP丸様は、受け入れられないのでしょうね。

結論.

Ado、見ているか?

お前は他人の幸せなど気にするな!

Ado、お前が大統領だ!