「危ない薬」に苛まれないために。木澤佐登志という幽霊と「癒し系」の樋口恭介。渡邉博史&へずまりゅうという本当の暗黒啓蒙。

文字数: 4552

闇の自己啓発という「危ない薬」

ピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン』は資本主義の競走から降りて、隠された真実を探し、イノーベーティブに起業しよう!と煽る点で、反権威的な闇のビジネス書と言えるかもしれないが、一つ注意しなければならないのは、これはスタンフォード大学の学生に向けた講義を元に書かれているということで、実のところ本書は将来を約束されたエリート学生が、その約束された退屈な将来からEXITして気持ち良くなるための「危ない薬」でしかない。「ゼロ・トゥ・ワン」とはゼロから1にすることであるが、本書は何も持たないゼロの人に向けて書かれてはいないのである。そもそも彼はエリートだけの海上国家を作ろうと公言している人物なのだから、こんなこと当たり前の話ではあるのだが。

さて、本来こうしたエリートにのみ許された享楽「危ない薬」をSomewhereな人々に売りつけている者たちがいる。大きなところで言えば、それは「既得権益を破壊する」と謳う維新の会や竹中平蔵で、小さなところで言えば、ネトウヨ売文家やオンラインサロン、ニートキャラでプロダクトローンチに走る情報商材屋嫌いのための情報商材屋である。

もはや言うまでもないが、木澤佐登志および「闇の自己啓発会」もその末席に連なる存在である。ダークウェブ、加速主義、反出生主義etc…、こうしてワードだけ並べてみるといかにも「異常」だが、田中ラッコ氏の批判にもある通り、これらはTwitterの特定界隈で流通するバズワードに過ぎないし、彼らがやっている異常者マーケティングというのは、ヴェブレンが言うところの顕示的消費、差異化のゲームの成れの果てに他ならない。

彼らは闇を謳っているが、そこで差異化の対象とされる普通の自己啓発や意識高い系、ヒカルやラファエル、箕輪厚介や西野亮廣の方が、本質的には似たようなことをやっているにしても「カネ!カネ!カネ!」と自分たちの欲望をオープンにしているだけまだ誠実で清々しい。

こうしたことは、自分たちがどれほど素晴らしくしょぼい生活を送れているかを情報として売ることで、その生活を維持するえらいてんちょう、大川隆法という巨悪とのバトルや意識高い系な詐欺師インフルエンサーへの批判をコンテンツ化する宏洋、弱者で鬱な姿を晒すことそれ自体をキャラクター化した黒髪ピピピ、SDGsを大衆のアヘンと批判しながら、脱成長というよりタチの悪いニヒリズムのアヘンを売りつける斎藤幸平にも言える。

いかにもな詐欺師や既存体制をぶった斬り、ロックでオルタナティブな生き方が提示されることに爽快感にも似た魅力を感じる気持ちも理解できなくはないが、安全圏からの火遊びたる「危ない薬」をキメてメタレベルに立ったつもりでいても、メンヘラなオタクたちは一生アンダークラスから抜け出せない。ひろゆき切り抜き動画やちくわのあるある、へライザーの物申しでガス抜きされる大二病キッズと同じように、小利口なバカとして餓死を迎えるだけだろう。

本当の暗黒啓蒙について語ろう

では、本気で闇の自己啓発を、本当の暗黒啓蒙をしたのは誰なのか。それはシステムに対してテロリズムを仕掛けた渡邉博史とへずまりゅうである。

『黒子のバスケ』脅迫事件の渡邉博史は、今こそ振り返られるべき存在だろう。大塚英志の分析によれば、彼の真なる標的は、黒子のバスケの作者に留まらないより「巨大な相手」、作者も同人誌も二次創作もオタクをも含む「メディアミックスシステム」、参加者の創発を誘導する「プラットフォーム」のやりがい搾取構造にある。

また渡邉はシステムによる「搾取されている人間」の無害化を、①客観的には搾取されているが主観的には幸福な人間、②搾取の不満を仮想敵にぶつける人間、③搾取の不満から自罰的になる自殺志願者(努力教信者)の3タイプに分類している。この分類をより具体化するなら、拡張現実的な①はバチャ豚やホス狂などのオタクからビッグニートやつとむ会などの日常主義者まで、仮想現実的な②はアンチフェミやネトウヨ、複合現実的な③は京王線ジョーカーとそのエピゴーネンたちとまとめられる。

オタクになりきれず、かといってネトウヨになるほど愚かでもなく、自殺を選ぶこともできなかった渡邉は、犯罪者として、オタク業界の産業構造へテロリズムを仕掛けることになったのだが、自身の主張の掲載先に『創』(犯罪当事者の文章を載せてきた雑誌)を指名しているように、彼はその犯行すらコンテンツとしてメディアミックスに呑み込まれることを予期して行動に出た節がある。

大塚が渡邉の批評から読み取った、システムへのテロリズムとそれさえメディアミックスの一貫としてコンテンツ化される構造は、迷惑系YouTuberのへずまりゅうにも当てはまる。無理矢理な凸激コラボでYouTuberの欺瞞(台本)を破壊しながらも、アルゴリズムのハック(わるいね集め)により人気者を目指した彼は、評価経済のエコシステムの破壊を目論みながらも、まさにその破壊活動(売名)によってYouTuberとして成功することを目標としていた。

渡邉やへずまは自分を疎外したシステムへの復讐者でありながら、まさにその復讐行為によって、特権的な表現者になろうとした、最強のテロリスト兼マーケッターだった。システムの欺瞞を白日のもとに晒しながらも、それさえ利用してのし上がろうとするやり方は挑発的だが、先の分類の②と③の狭間で「危ない薬」や「アヘン」を売りつける木澤佐登志や闇の自己啓発会、斎藤幸平に比べたら、資本主義へのテロリズムさえもシステムの加速装置に呑み込まれるという出口のなさを体当たりで示した彼らは、本当の暗黒啓蒙を成し遂げたと言えるだろう。

木澤佐登志が怖い理由(顔が見えない)

木澤も影響を受けたであろう悪趣味系・鬼畜系の代表的な文化人の一人に村崎百郎という人物がいる。彼は「世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!!と宣言し、ゴミ漁りを通して人間も世の中も一皮めくればみんな等しくゴミなんだと、藤原新也が83年に『東京漂流』で描いたような、臭いものにはフタをする、当時の偽善的な空気への反抗を試みた一人と言えるだろうが、自分自身さえもゴミで、内面なんかすべて仮面で存在しないからこそ、深夜の街へゴミを漁りに行かずにはいられないその姿には、村崎固有の屈折した文学性が宿っていた。

村崎が偏愛したのは、ゴミというモノ≒情報ではなく、ゴミから読み取れるモノガタリ≒歴史の方で、誰もが無価値と見なすゴミをサルベージする中に、神が宿るとする諧謔性は極めておたく的なものだった。そのムードはドラッグやロリコンを実践的に紹介する青山正明や香港に行って違法コピーのゲームを買い集めたクーロン黒沢にも見られたし、もちろんダークウェブというアンダーグラウンドの内実を紹介する木澤佐登志にも認められるだろう。ただ木澤からは彼らと違って、身体性のフェティッシュや実存への情念が全くと言っていいほど感じられない。木澤佐登志書架記を見ても、流行りを抑えつつ、賢く見えそうな高価な書籍を羅列しているだけで、ビジネスとしては理にかなったラインナップだが、彼が心の底から好きなものが何なのかはさっぱり分からないのである。

『秋葉原裏の歩き方』で秋葉原という猥雑な街をクーロン黒沢的に活写し、『僕はにゃるらになってしまった』で本人の半生とネットへの思いを語るにゃるらからは、 身体性を伴った切実さやフェティッシュな生が感じられるが、木澤からは何もにおいがしない。

もっと熱く生きろよ人生を。

「良識派のスカしたヤツには、このディープさ、わかんねえだろうな」と、彼が異常者インテリであることをアピールするためにファッション感覚で情報を羅列しているのではなく、例えば本気でロリコンに関心を抱いているのなら、紹介レベルでもいいから、清岡純子論を書いて貰いたい。少女のハダカを死体写真としか見ない彼には、清岡の撮る土着的で猥雑な少女の肉体に向き合えるとは思えないが。

樋口恭介を救いたい。自己像と現実の狭間から

しかし、そんな闇の自己啓発界隈にも一人熱い男がいる。『SFマガジン』で「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」を企画して炎上した樋口恭介である。

冷静に考えれば、彼が提案した入手困難な絶版本を想像でレビューする企画は大して炎上するようなものではない。絶版本の権利を多数握っている早川書房でそんな企画を立てることが不謹慎だという怒りの声があったが、なら責められるべきは樋口より早川書房の方だろう。この問題の本質は、異常者マーケティングで飯を食っている者たちへの潜在的な不満や怒りが顕在化したところにある。樋口がターゲットにされたのは、単に彼が過剰反応して自滅しそうなイキリオタクの道化だったからで、木澤や早川のスケープゴートにされたに過ぎない。木澤はもちろん一ノ瀬翔太をはじめとする早川の編集者の誰も彼に手を差し伸べなかったが、炎上の本丸が彼らにある以上、決して対岸の火事では済まされないだろう。樋口一人でこの火種が消えることはない。

ただ樋口のイキリは異常者アピールのためだけの完全なファッションではない。彼は小泉義之の『生殖の哲学』で示される、障害者の豊穣な生が歓待されるユートピアに感銘を受けるような人間でもあり、生きづらさを抱える人のために文章を書きたいという気持ちに偽りはないように思える。それは批判者の意見に正面から応えようとする誠実な態度にも表れているだろう。彼がイキった発言をしてしまうのは、おそらくメンタリストDaiGoと同じようにコンプレックスを抱えるがゆえに攻撃的になっているだけで、素の樋口恭介は繊細な人間ではないだろうか。

その意味で彼の人間性は青山正明に似ている。青山もまた自己像と現実の狭間で苦悩した人間だからだ。彼は自身がロリコンになった一番の理由に「自分の頭で考えていた自己像と、現実の自分がかけ離れていること」を挙げている。彼がドラッグにハマり過ぎた遠因は、この自身のロリコン性への問題によって、妻との関係が上手くいかなくなったことにある。晩年の彼は「鬼畜系」のイメージと素の繊細な人間性とのギャップから、「癒し系」「悟り系」へ転向しようとしていた。炎上後、いいねもリツイートもない本当のTwitter2へ旅立ち、その中での内省からTwitterを捉え直そうとした樋口もまた、彼の本性である「癒し系」に目を向けることで、「鬼畜系」な異常イキリキャラを冷静に見つめ直そうとしている。暗黒の繭をまとった幽霊の木澤とは違って、自分のことばに向き合った樋口は、ことばの強度をより研ぎ澄まして再びTwitterに戻ってくるに違いない。