ぼくの大阪万博

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2026年10月28日 14:16

落合陽一の死について少し考えてみる。と、息巻いてみたはいいものの、困ったな、あまりにシンプルな問題すぎて書くことがない。ここ数年の彼の、土気色にくすんだあの顔を見ていれば誰でも分かる。過労と不健康、緩慢な自殺、といっただろうか。彼はゆるやかに、にこやかに、死へ向かっていた。よく走りきった!と拍手を送りたい。素直にそう思う。きっと幸福な最期だったのだろう。長い間ありがとう。そしてお疲れ様でした。

さて、あなたの万博はどうだっただろうか。テレビやネットから洪水のように情報が流れてはくるものの、私はあまり興味が持てず、どこか他人事のように眺めていた。NHKで放送されたEXPO’70を振り返るドキュメンタリーを見て、夢を信じられたあの頃に思いを馳せながら、岡本太郎も丹下健三も横尾忠則も小松左京も針生一郎もいない退屈な現在と真っ暗な未来から目を背けた居心地の悪いあの時間だけが、強いて言えば、ぼくの大阪万博だった。

世間もそんなに変わらず、といった具合である。それなりに来場者はいたようだが、テレビで見る限り若者はあまり見当たらず、この国策イベントは、旧人類たちにもはや見ることのできない夢を仮構するために行われているのだとの実感を強めただけだった。

今日もまた、ひろゆきがプチ炎上していた。人気者だったのも今は昔、PV数は全盛期に比べると大幅に落ち込み、最近の彼につくコメントはほとんどアンチ寄りのものばかり。さて、問題のツイートがこれだ。

「落合陽一さんは社会問題に関して真面目に考えながらも、面白いアプローチを取るなあとワクワクさせてもらっていたので残念です。そちらではよく寝てください」

「そちらではよく寝てください」が死者を冒涜しているとのことで燃えているようだが、私はそれよりも「ワクワクさせてもらっていたので残念です」と申し添えたことに悪意を感じた。過去の対談でも寝た方がいいと言っていたが、あのときから長生きしてオイラたちに尽くせ、もっと楽しませろと迫るパワハラにしか思えなかった。落合の死とひろゆきのオワコン化によって、数年越しに彼の悪意が読み取られるというグロテスクな出来事に少し寒気がした。

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2026年11月4日 23:38

昨年は2025年問題が騒がれたが、プレ・シンギュラリティを感じられるような気配は全くない。多くの識者たちが期待と恐怖を滲ませながら、テクノロジーと社会の未来を語っていたが、コンビニの店員は未だに人間だし、自動運転車も全く普及していない。生活のレベルですらそこまで進んでいないのに、AIが人間を超えるなど、ノストラダムスの大予言と変わらない、結局くだらない与太話に過ぎないのだろう。万博に終末論、反復される70年代、日本の悪い場所、この国の幼稚な引きこもり願望には暗澹たる気持ちにさせられる。

VRもスマホのように誰もが気軽に使えるようになるかと思っていたが、日本の企業の多くは未だにZOOMで会議をしている始末だ。アメリカや中国は出社も会議も全てVR空間に切り替わっているというのに。この国で唯一発展したVR産業はVRポルノで、依存症者の増加が社会問題になっている。かつてSDGsは大衆のアヘンだと啓蒙活動に勤しんでいた斎藤幸平も今や依存症となり、最近はVRポルノに関する発言しかしていない。射精、イメージに精神を射られてしまえば、屹立したマルクス主義も途端に萎えてしまうのだ。彼はリアルそっくりにつくられたポルノ、偽物のセックスこそ本物よりも気持ちの良いアヘンなのだと身をもって証明してくれた。口では強いことを散々言っておきながら、何にも真剣になれずに、機械とのオナニーに明け暮れる。彼は脱成長派としても三流だった。

なんてくだらないことを考えながら、美術手帖の「SDGsと未来のアートを考ねる」(長濱ねるの連載。今回のゲストはレスリー・キー)を読んでいたときのことだった。スマホの通知にYOASOBIのボーカルが自殺したとのニュースが飛び込んできたのだ。

YOASOBI最大のヒット曲「夜に駆ける」は、原作小説「タナトスの誘惑」によれば、ブラック企業に勤める青年が幽霊的な彼女に導かれて飛び降り自殺する話だ。大阪万博のテーマ曲にも選ばれた彼らの子供向けSDGsソング「ツバメ」は資本主義を下支えする外部に目を背け、「心が黒く染まる」抵抗を否定し、「許すことで認めることで 僕らは繋がり合える」と歌う。一方は過労自殺を歌ったプロレタリアソングでありながら、もう一方では外部の収奪を優しく肯定する。この二曲はテーマとしては矛盾しているが、どちらも主体性がない点では共通している。その意味で彼らの中では整合性が取れているのだろう。こうした自身の政治性に無自覚な、身体性の欠如が彼女を死に導いたのかと少し考えたが、変な意味づけはやめよう。すべてがロジックで理解できるわけではない。恋愛、家族関係etc…、自殺の理由なんて大抵は本人にしか分からない小さな世界の話だったりするのだから。今思い出したが「夜に駆ける」は神田沙也加もカバーしていた。今夜は彼女の「夜に駆ける」を聴いてから眠ることにする。

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2026年11月5日 10:23

昨晩はあまり眠れなかった。 頭が痛い。デジタルな感触がまだ耳に残っている。なにか悪夢を見た気がするが思い出せない。

寝癖のついた頭のまま、ブランチを買いにミスタードーナツへ行く。ポケモンのドーナツがクマだのウサギだのなんちゃらシュガーだの適当な名前に変えて安く売られていた。皆それを目当てにやって来るので、販売期間終了後すぐに訪れないとエセポケモンドーナツは売り切れてしまう。本物のポケモンのドーナツを買うのは少数派だ。もはや何のために売っているのか分からない。売れ残りの偽物の方が本物より売れる倒錯した状況。この国はゆっくりと貧しくなっている。

ポケモンの原型を留めていないなんちゃらシュガーを齧りながら、再びYOASOBIのボーカル、幾田りらのことを考える。思えば私たちは彼女の声を聴いたことがなかったかもしれない。

彼女の歌声は常にボーカロイド風に加工されている。歌ったときは間違いなく彼女の声のはずなのに、私たちのもとに届けられるのは、もはや誰でもない括弧付きの「幾田りら」の声だ。彼女の本当の声はどこにあるのだろうか。加工前?加工前とはいつだ?未開社会の人間でさえデジタルデバイスを手にした今のこの世に、加工されていないものなど存在し得るのだろうか。私たちは誰かの、本当の声も顔も性格も何も知らない。

YouTubeにアクセスする。神なき電子の廃墟には今も彼女の歌声が響いている。

「信じられない。幾田りらさんの新しい歌声をもっと聴きたかったのに…」

「今まで綺麗な歌声を届けてくれてありがとう」

あなたのことを決して忘れません」

彼女を悼むコメント群を眺めていてもなお、彼女の死に対して実感が湧かない。その無機質に透き通った歌声からは、血の匂いが漂って来ないからだ。そこで私は初めて気がついた。彼女は人形だったのだと。いつか朽ちて土に還るような人形ではなく、永遠に生きるような人形なのだと。機械をトレースし、自身を非人間的な「ボーカル」へ近づける彼女は、これまでもこれからもYOASOBIという記号に埋め込まれた歌姫として生き続けることだろう。

私は普段コメントをしない。読まれたくないからだ。しかし、今回ばかりは手が勝手に動いていた。不躾なことだとは分かっていても、ショーケースから出られない人形に魂を吹き込みたい欲望を抑えられなかったのだ。私ははやる気持ちを抑え、いま書くべきことばをゆっくりと書き込んだ。

「ときめきに死す」

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2026年11月15日 18:17

1970年の大阪万博は高度経済成長を象徴する一大イベントで、時代の空気も明るい未来へ向かっていた。そんな中、岡本太郎は原始的で生命の源を感じさせるドロドロとした造形の太陽の塔を打ち立てることで、進歩主義にアンチテーゼをかましたのだが、2026年の大阪万博に生々しい血が流れているとすれば、それはなんだろうか。多細胞的で頭部を持たない剥き出しの「いきもの」を思わせる奇妙なイメージキャラクター「いのちの輝き」と賢しらな評論家は口にするだろうが、EXPO’25への最も強烈なアンチテーゼは、会期終了を目前にして生物として朽ちていった落合陽一その人だろう。

対して幾田りらは死にきれていない。彼女のバーチャルな身体は、綺麗すぎるほど綺麗に冷凍保存され、明けない夜に落ち窪んだままだ。斎藤幸平はヘッドセットを外して彼女を抱いてやるべきだったかもしれない。

VRポルノを初めて体験した。幾田りらにそっくりのAV女優とセックスした。自殺報道から一週間後のことだ。映像の人形なのだから当たり前だが、話しかけても返答はないし、感触はあるのに触れられない気がした。VRの中ではセックスだけが目的化しており、そこにコミュニケーションは存在しなかった。やはりこれは機械を介した、否、機械に収奪されたオナニーなのだなと斎藤幸平のことを哀れに思った。

2026年もあと一ヶ月半で終わる。つい先日まで万博万博とうるさかったメディアもすっかり大人しくなり、いよいよ夢から覚めた後には、無駄に豪華絢爛なゴミの島だけが残される。祭りの後の掃除は誰もやりたがらない。「EXPO 2025」の文字が踊るゲンコツのオブジェの傍を横切りながら、プレイリスト「ぼくの大阪万博」よりDAOKOの「ShibuyaK」を再生する。

なんでもあるけどなんにもないな
この街じゃなくて私が?
歩けど歩けど在るけど
何にもないよな気になるの

大阪万博とそこに携わる人々の死によって改めて思ったのは、この世界は巨大な渋谷になったのかもしれない、ということだ。なんでもあるけどなんにもない、大量の情報が日々アーカイブされ続ける渋谷という空っぽの大郊外に、私たちの生は囲い込まれてしまった。そこでは生物として朽ちることを選んだ落合陽一は黙殺され、機械にそっくりな幾田りらの歌声だけが哀しく響き続ける。太陽の塔が数ある万博グッズの一つとして大量生産されているように、いくら自分の身体を生々しく傷つけようと、仮想空間にアップロードされた魂を解放することはできないのだ。それは彼自身が最も理解していたところだろうが。

※この小説は2026年8月に書かれたものです。実在の人物や団体などとは関係ありません。