ひろゆきや猫は公共サービス。個別のひろゆき、猫とは違う。

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 人は辞書になるんじゃないかという話し。

 評価経済やインフルエンサーという単語ぐらいは皆分かっているけど、

 猫のtictokerだとかたくさんの美男美女のインフルエンサーだらけになると、

 経済的に人々だらけで、人は気にならなくなるんじゃねーの、

 たとえば、今、ひろゆきを見る人々は本当にいるのだろうか?

 また、同じ意味だけど、猫を見る人々は本当にいるんだろうか?

 もうひろゆき切り抜き動画や猫の動画だらけすぎて、人々はもうひろゆきや猫を良くも悪くもそこらへんに生えている草にしか思わないんじゃないだろうか?

 つまり、フリーの公共サービスが、ひろゆき切り抜き動画や猫の動画で、

 となると、いかに、抽象的にひろゆき動画を見た、猫動画を見た、ではなくて、

 自分なりの島宇宙でどう具体的に動いたか?もしくは質回帰はすでに起きている気がする。

 たとえば、成田悠輔というひろゆきとのコラボで出てきた人間がいるが、異様な人気とひろゆきをある種超える実力の一方で、やはりひろゆきより難しいし、

ひろゆきより有名じゃないのに、

ひろゆきより凄そうな空気を感じる。

 が、この感じるが重要で、従来の評価経済だとひろゆきにいいね数やいい人が勝らない成田悠輔は、はっきり言えばゴミなのに関わらず、更に東浩紀より認知が少ないひろゆきが出ている番組の相棒だけなのに関わらず、存在感を増している。

 なるほど、量の競争は決着がつき、良くも悪くも質、縦の競争にゲームはスライドしている気がする。

 大事なことはどれだけのたくさんに知られているかよりも、どれだけ尖っているか?に価値が増している気がする。

 ひろゆきや猫が殿堂入りに有名になり、ひろゆきや猫は民主化されてしまった。