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言葉で鬱病かどうかを考えている時点で、もう治らないと思う。
これは、
非モテとかも含めてだ。
Twitterを眺めると、鬱病やメンヘラ、下級国民、非モテだとかが流行っている。
が、これは、卵か先か鳥が先かだけど、
鬱病やメンヘラ、下級国民、非モテが多いのではなくて、
Twitterをイジる行為が、その人の鬱病やメンヘラ、下級国民、非モテ度合いを助長しているように見える。
例えば、すごいしょうもなくて、身も蓋もないけど、
朝起きてからずっと夜まで昨日は調子が悪く、なんでもネガティブに見える日だった。
が、いつもと全く同じ風景。というか、客観的にみたら、恵まれている風景。
ひろゆきほどじゃないにしろ、質として不謹慎系論壇を20代でもらい、人材や暇つぶしももらい、かつ量としては最後の炎上商法として注目を限定的にもらい、仕事もできているので、将来に基本的には困らないし、やっと成果が出てきたって感じだ。
なのに、昨日はネガティブに感じてしまい、ああ!これがメンヘラか!と分かった。
メンヘラは単純に、体調不良だと分かったのは、今が驚くほど調子が良いのに、私はネガティブな理由を探していたからだ。
つまり、最近の徹夜のスペースのやりすぎが、体調を壊しただけで、が、人生は程よく体調も壊すことも大事だから、調子が悪い日は理屈を考えず、早く寝ることにした。
治った。
そして、昼に大量にご飯を食べたら、またヘラり出した。
なるほど、頭に血が回らなくなったり、つまり、自律神経が悪くなると、ヘラるのだ。
だから、中途半端に言葉や理屈で幸福か不幸かをウダウダ言っているのは、意味がなく、中途半端な学歴、及びずっと階級にこだわる人々ほど不幸な気がしちゃう。アンフェミや哲学系など。
もちろんアンフェミや哲学系も有効な部分もあるけど、言語や議論をしたからと言って治るか問題が解決するかというと、身も蓋もないけど、生理的な面が大きい気がする。
だから、単純に運動をしたり、あまりにルーチンワークならあえて身体を壊したり、身体を壊しすぎたら、頭に頼らずに早く寝る、栄養をとる、という方がずっと効率がいい。
身も蓋もないが、幸福かそうじゃないか、という発想も、1つの哲学であり、つまり、政治であり、その幸福そのものが幻想だ。もちろん絶望そのものも幻想だが。
幸福や絶望に対する定義づけが曖昧だから、もちろん曖昧ゆえに、もっと客観的な神聖な身性から考えた方が話は早いと思う。
これが自分だ、あれが自分ではない、は、もちろん人間が生きるゆえでのやりがいだ。
が、あくまでそれは1つの結果であり、ヘラっているのは、ちょっと合理的では、ない。
もちろん合理的には動けないだろうけど、
Twitterは
言語しか見えない。
そのデミリットは意識して利用しなければ、ならない。
自由に見えて、不自由、鳥が先か、卵が先か、
肉体性のないところには、本質はない。
〈追記〉
うまいツイッターの利用者は、詩的表現が上手くなる気がする。インフルエンサーたちに騙されなくなるのも、詩的表現な気がする。ネタツイとは絶妙に違い、言葉そのものをズラす愉しみが分からないと、ツイッターは利用できないし、動画になると、コメント欄よりも不謹慎な動画投稿者にならないとメンヘラは治せない。あれ、ほとんど今メンヘラだらけかも。。。