YouTuberというイミテーション。あるいはメディアのゾンビ。

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~古書店にて~

ふわぽへ「……(美術雑誌をパラ読みする)」

古田「あれ?ちょっと待って!」

ふわぽへ「どうしたんですか?」

古田「いや、これHIKAKINに似てねw?」

ふわぽへ「ホントだw」

このときは冗談半分で笑っていたが、後で調べたところ、右手に大量消費社会の象徴たるコカコーラ、左手に文脈のゲームの象徴たるデュシャンの肖像を携えた、首をグルグルと回転させるこのハリボテ人形は篠原有司男の「思考するマルセル・デュシャン」という作品で、固有性と歴史性を失い、果てしなき差異化へと落ち込んでゆく悪い場所な60年代の現代美術を「物体レベルにまで遡ればそこに差異はない。全部イミテーション(模造品)の消費ゲームだ!」と倒錯的に皮肉ったものらしく、評価経済のいいね集めゲームに翻弄されるHIKAKINの哀れな滑稽さへと瞬時に読み替えた古田更一の批評的直観の鋭さに、流石はインテリ界の不謹慎系YouTuberだと改めて感服してしまった。

YouTuberが多かれ少なかれ素の「わたし」を殺し、キャラクターというウイルスを注入した、三次元に二次元のレイヤーを重ねた改造人間だとするなら、その親玉であるヒカキンは全身の隅々までウイルスに冒され、人間・開發光へと戻ることができなくなったゾンビだ。

ゾンビの起源はブードゥー教にあると言われているが、映画の中から拡散していったゾンビは完全なるフィクションで、歩くのが遅いなどのお約束を勝手に作ったかと思えば、それを逆手に取って速く走らせてみたり、生物兵器を造るための科学実験やニートキャラのゾンビ、美少女化など時代と共に柔軟に姿を変えるなど、存在そのものがゾンビ的な、無自覚にメディアに呑み込まれるメディア、汎メディアと化している。

イメージのウイルスにより変異を遂げてゆくゾンビは、フィクションの反復によって増殖し続けるオリジナルなきコピーだが、メディアのゾンビたるHIKAKINもまたYouTuberという記号を現実だと思い込んだイミテーション、人気者という名のハリボテ人形だ。本質的にはデュシャンの泉と同じなのに、彼にはシバターと違って「所詮は素人です」というメタが存在しない。だからこそ本気でいいひとであろうとする狂気がある。

右手に大量消費社会の象徴たるメントスコーラ、左手にいいね集めの象徴たる猫を抱え、ぐちゃぐちゃの変顔で大袈裟なリアクションを取るHIKAKINは、退屈だが漫然とクリックしてしまうYouTube上に並ぶ無数の動画の中のひとつでしかない。

彼は「好きなことで生きている」つもりかもしれないが、評価経済の論理とGoogleのアルゴリズムに身体性を剥奪され、テックのウイルスによって動かされるゾンビに過ぎない。

そうしたデジタル社畜の滑稽さをクールに相対化したのが、不謹慎系YouTuberたちの素人芸だが、こうしてHIKAKINと「思考するマルセル・デュシャン」を並べて見ると、時代状況やフィールドこそ違えど、美術は所詮フィクションじゃんと身も蓋もないことを真顔で言ってのけた篠原有司男も不謹慎系の想像力に近いところがあったのかもしれない。