なぜ文壇は人を殺害し続けるのか?

 公人に学んで、

 ほどよいサイコパス性は重要かもしれない。 

 文系の大学教授や大企業の重役、文壇の政治野郎は良い意味でサイコパス性が高い人が多いと思うが、それは良いことだと思う。

 原理的に不平等を是正しようと思った場合、

 学歴や天皇制を廃止するべきだからだ。

 そして、ベーシック・インカムに近くするのは必然だろう。

 幼稚な事を言っているように逸らされそうだが、それならなぜ一概にこのようなテーゼを一才話題にすら上がらないのか、そっちの方が不可解だろう。

 様々な事例を候補に挙げて議論するのが、リベラルだ。

 それがないのなら、学歴や天皇の話題すらタブー視する場合は、それはリベラルではなくて、

中世期と変わらないだろう。

 だが、皆薄々したくないのでまた人が死んで欲しいので(苦労している人々を踏み台にしながら、自分の手で助けたい幼稚なヒーロー願望があるので)、クチでは悩んだふりをしながら、問題解決を放棄しつつ、問題を解決しようとするふりをしながら、そこに罪悪感もわかない、自分で自分を騙しているパワー系コミュ障、ほどよいサイコパスは重要だと思う。

 思うに、本を読んだり、哲学や文学をやる際に実践がないとマジ無意味、伴わないのは、このサイコパス問題だと思う。

 逆に言えば、あまり考えすぎるなよ、あまり哲学しすぎるなよ、も重要かもしれない。

 割と気持ち悪いのは、

 友達大事!

 にサイコパスはなりやすいことだ。

 重役を観察していて解るのは、ゲームでは勝てても、いやゲームで勝って友達を稼ぎたいのだ。

 逆に言えば、彼らがなぜサイコパス制を隠すかと言えば、サイコパス性ゆえに友達づくりに必死だからであり、彼らは彼らで違う悩みがあるからだ。

 わりと人文や芸術には、この単なる政治野郎がたくさんいる

 それはそれで構わないが、病気だ。

 脳内麻薬、恋愛にハマりすぎるのは良いが、限度を超えた恋愛中毒は禁断症状まで達している

 逆に言えば、仕事や戦いでは彼らの気狂いさは参考になる

 適度に恋愛や友情、ソシャゲによる脳内電気の刺激は仕事や鬱時に、理屈抜きに効く場合がある気がする。

 成功している健常者系は概して、骨董無形で実現不可能な人文知的おバカな公約をかがけて、毎回失敗しても誤魔化したり、過去の発言を自分に自分で騙す方々が多い。

 正直、ぼくからすると能力しかない成功者は代わりはたくさんいるしどれも同じ反応でサンプルとして役に立たないが、

 生きやすくなるという点で、

 このサイコパス性は参考になる。

 サイコパスのやりすぎは問題なので、政治家がよくやりすぎてしまうのも、サイコパスで成功は保証するが、後にやりすぎは失敗につながるのだ。

 思うに苦労する人は、サイコパス度が低い気がする。

 理想論かもしれないが、バランスよくサイコパスになって、バランスよくサイコパスをやめるのが重要だ

 逆に言えば、大半の人間に意志はないと思うが、意志ない人間たちも追い込まれると意志が発生する気がする。

  宗教そのものには問題があるが、科学的に見ると、自分を過剰に投信する宗教はめちゃくちゃ使えるのだ。

 だから、おバカな熱狂も意図的に批評的に俯瞰できるなら、良いことだろう。