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最近、よく思うのだけど、東浩紀さんは社畜だと思う。
東大にスラっと入れちゃうし、起業も体育会系的にスラっとできる。
だけど、一方で、メディアをメタれない奴隷だなって思うことがある。
例えば、強烈に対照的な僕、古田更一がヒントになると思う。
静くんもそうだけど、僕はそもそも学校に関心がなくて、大学名にも仕事名にも興味がない。見栄を張る人の気持ちが一切分からない。
例えば、ラーメンを食べると、あっ!美味しい!本を読むと、あっ!面白い!ってなる。
そんな原初の原始時代的な喜びのことしか考えていない。
だから、学校名だとか、仕事名だとかに興味がない。
だからこそ、仕事が辛いというのも、あまりない。
いや、仕事は辛いは辛い。
だけど、科学の実験だと思っていて、どれだけどこかの部位を酷使するかっていう自傷行為だと思うと、意外とできることがあるし、仮に辛くても、人格ダメージはない。単純に能力がなかったり運がなくてできないんだなと判断しちゃう。
だから、僕の場合は、経済学の勉強をいっぱいしまくり、いかに経済コストを安くするかを極限まで考えて生活している。
だから、普段の生活そのものが24時間働いているとも言えるのだ。
が、世間や東浩紀さんの中では、仕事は仕事、お金はお金という素朴さがどうやらあるらしい。
僕はメディアそのもの、お金そのものを疑っているので、よく分からない。
お金や学位は手段でしょって。
そもそもが演技したところで、それは本当の自分じゃないよ、他人からもらった幻想だよっていう人間を俯瞰して見ているところがあるので、そこが彼とは最大にズレているなぁって感じる。
例えば、人文知の未来がどうこうも、遊びじゃんとしか思えない。
いや悲しいことは悲しいことだけど、遊びだから無くなるのは当然。
勝手にやればいいよってすぐやればいい。
実際に彼は手足を動かしてやっているけど、人文知の未来がなくなっても、別に市場的につまらないから無くなっただけで、落合陽一的なものを阻害しているのを見ると、極めて物語的な1つの批評だけに限定されているような気がしてならない。
最大の文脈のゲームすぎるっていうか。
もちろん誰しも文脈はあるけど、露骨すぎると思う。
だから、仕事は仕事なの?っていうメタレベルが意外と弱いと思う。
仕事はあくまで手段だとかいう目線が弱いと思う。
仕事しろとは言わないしお金はあった方がいい。
ただ仕事やお金をしないための努力や工夫こそ、批評だとも思う。
そこが彼とは噛み合っていない気がする。
もちろん気概とかでは一致しているが、僕はそんなに熱くない。機械に勝るにはパッションしかないから、異常に24時間努力しているだけだ。計算の範囲、落合陽一を読んで、逆になったが、本質は同じだと思う。
文系と理系みたいなものかな。