死にそうな弱者男性(20)による必死の熱すぎる大叫び。(神聖不可侵のゲンロンカフェという宗教団体) 〜暴走しすぎる危険列車ネトウヨ東浩紀(50)が潔いクソリベラル町山智浩(59)に人生哲学そのもので大敗北した理由〜

 断言しよう。

東浩紀は地獄に堕ちる。

 もちろん天才(天災は忘れた頃にやって来る…?)ゆえに、だ。

 2021年7月3日、僕は小林よしのり・三浦瑠璃・東浩紀出演の「ゴー宣ネット道場『コロナ禍、緊急鼎談!』に参加した。

 会場では、度重なる緊急事態に象徴される過度なノーリスク社会の到来、引きこもってしまった文系の大学人、対面コミュニケーションの危機といった様々な話題が登場した。全体として振り返ると、この鼎談に観客として参加できたことを僕はとても有意義だったと感じる。

 会場をざっと見渡したところ、観客の比率は七割が中年の男性、二割が若い男性、一割が女性といったところだった。東浩紀は相変わらず話がうまかったが、小林よしのりもコミカルで、世間で広まっている「右翼の漫画化」といったイメージとは違う像を見せた。小林よしのり主催の鼎談だったので、最悪の場合「保守派の集団に招かれた左翼知識人が騒乱の中、主催者と激論を交わす」といったような血なまぐさい状況になるかもしれないと心配していたが、会場の雰囲気は最後まで居心地が良く穏やかであった。鼎談者の三人が何か冗談を言うと会場がどっと盛り上がり、話題がリベラルに対する批判に移ると、やれやれといった苦笑や忍び笑いが広がった。

小林よしのり「専門家なんて糞くらえ!」

観客「はっはっは!」

東浩紀「理系と違って文系の知識は大学が独占できるものじゃないんですよ。例えば憲法の条文にしたって、国民の納得を得るように改変されていくものが憲法だから、自分一人が憲法を解釈できると考えている憲法学者は『神学者』なんですよ」

観客「そうだ!その通りだ!」

ところどころ僕もつられて笑ってしまった。五時間にわたる議論はとても刺激的だったし、来てよかったと思った。「全体」として見れば。

 1、東浩紀の功績という功罪

  当然、彼らが批判した「専門家」や「リベラリスト」たちからすれば、個々の議論には穴がたくさんあるだろうし、中には「反知性主義」だと一蹴する人もいるだろう。彼らは「なに右翼に媚びを売っているんだ、東浩紀」と思っているだろうし、実際Twitter界には「三浦瑠璃と小林よしのりと鼎談して何が生まれるんだ」という非難があった。

 

 

 もちろん東浩紀もあの会場を占めていたのがどんなタイプの人間か熟知していたはずだ。自分の発言が、悪い意味での「反権威主義」、「反知性主義」にお墨付きを与えるものとして「消費」される可能性があることも分かっていた。たとえそうだとしても、東浩紀からすればこの会場に保守派の人間と自分の視聴者という本来あまり相いれないはずの人間が集まっている、そのことの方が大事だったのだろう。

 人々がTwitterの中で口汚く人格攻撃を行い、指先の動作で敵か味方か決定される今の状況で、思想や立場の違う人間がジョークを飛ばして笑いあっている。コロナ禍によって対面のコミュニケーションが激減した中、自分と似ていない人間同士が身体的なコミュニケーションを通して熟議に参加している。ゲンロンカフェの精神とも一致していたあの鼎談は東浩紀からすれば十分成功だったのだ。実際、小林のりよしや三浦瑠璃の観客だった人間から東浩紀個人やゲンロンカフェに興味を持った人間がいただろうし、反対に三浦瑠璃と小林よしのりにあまり良くないイメージを持っていた東浩紀の読者が、ちょっと読んでみようかなと二人の著作に手を出してみる、そんな展開もあったはずだ。左派やいわゆる「クソリベラル」と呼ばれる人間が到底出来ないことを東浩紀はやって見せたのだ。

 仮にあの会場で、東浩紀がまるで大学教員のように、「いや、専門家なんて糞くらえ!と言うのは簡単ですが、やはり特定分野の最先端を走っている人たちではあるので、我々市民としてはまずしっかりと耳を傾けることが大事で、権威のある情報機関のチェックは怠らずに慎重に行動する必要が……」などと長ったらしく「正論」を吐いていたらどうなっていただろう。たちまち鼎談はしらけ、会場の熱気に水を差すことになり、「なんだ、哲学者なんて名乗っているがあいつもやっぱり権力側じゃないか」と観客にそっぽを向かれてしまっていただろう。その結果、東浩紀の視聴者と、小林よしのり・三浦瑠璃の視聴者との溝は元のまま残り、最悪以前よりも分断が深まってしまった可能性さえある。せっかく生の体を通して互いに語り合う機会が用意されていたのに、血生臭いネット空間の世界に逆戻りである。

「クソリベラル!」

「クソリベラル!」

「クソリベラル!」

 日常的によく見られる光景だが、高度な専門知や、感情論を比較的抑えた意見というものは、大多数の人間の受けが悪い。なぜなら我々はシンプルなストーリーを求める生き物だからだ。反知性的な大衆vs.教養人という構図や、それに対抗するために生み出された、バカな大学人vs.真実に気づいた我々「まともな」大衆、あるいはいわゆる「ツイフェミ」の「男という悪を断罪することによって築かれる理想郷」、アンチフェミニストの「男こそ一方的な犠牲者論」、自分たちの国こそ正義だと信じる極端なナショナリズム、反対に「悪である自分たちが謝罪をし、反省をし続ければ世界は安全である」平和主義など、これら全てがシンプルなスト―リーだ。

 一度その考えを信じてしまえば、深く思考し、対立する意見にも耳を貸し、立ち止まってわが身を振り返るなどといった、面倒くさい作業からは解放される。自分独自の意見や実りある批判精神というものは、本来長い訓練を経て、幅広い知識を身に着けて初めて手に入るものだが、こうしたシンプルなストーリーに乗っかれば、「独自の意見」が一夜で手に入った気分にさせてくれる。世界最高の権威をもつ学者ですら気づいていない「真理」を自分が掴んでいる、そんな錯覚を覚えるのだ。実際は、真実もフェイクも、被害者も加害者も、正義も悪も、知性も感情も、それらが分けがたく入り混じっているものが現実であるのに。

 ここまで読んでいただいた人は、私の価値観がリベラル寄りであることに気づくだろう。そしてこのような反論が浮かぶかもしれない。「仮に大学教員やいわゆるリベラルの『知識人』の方が情報量において豊富でも、彼ら彼女らは失言をし、反対意見に対する不寛容な立場を見せる時があるではないか。勉強だけできても、人間としての性根が腐っているようじゃ話にならないではないか?」

  それはその通りだ。大学教員といった高い社会的地位を持ち、発信する情報や意見に権威を帯びる人間に、高潔な人格が求められることは当然だろう。専門的な知識を身に着けているということは、変な言い方だが、それだけ高い殺傷能力をも持っていることを意味する。学者や知識人の権威が失墜している今日とは言え、少なくとも博士課程が修了するまでに二千冊超の学術書を読んできた彼ら・彼女らは、依然言論活動において、やろうと思えば相手に逃げ場を絶対に作らせない極めて陰湿な理詰めの暴力=ロジハラをし放題の立場にいる。

 当然、我々一般人はそのような能力を持っていないため、いわばそれを補完するためにも、日常生活を営む上で最低限の社交性や倫理観が求められるのだ。なぜなら、素人がどれだけ討論に長けていても、言外から滲み出す性格の悪さなどを隠し通すことは不可能に近いからである。他方、大学教員や知識人たちは、その膨大な知識量が仇となり、イデオロギーの違う相手への容赦の無い不寛容、「勉強」を怠ってきたものに対する強烈な蔑視、「大衆」の間で繰り広げられる討論への軽蔑・無関心といった、人格における問題点に本人も周りも見て見ぬふりをしてやり過ごし、あるいは気づかれないといったことがあるのだろう。アカデミアの世界の徹底的な能力主義がそうした傾向に拍車をかけ、頭脳明晰で研究能力も極めて高いが「人格に難あり」といった人間が少なからず生まれてしまうのかもしれない。

 

クソリベラルの失墜と

 都合のいい

 ネトサヨネトウヨ利用者

 東浩紀くんの大躍進

 翻って東浩紀はどうだろう。以前まではメディアにも少なからず出演し、専門家などに小馬鹿にされているひろゆきとも会談するなど、「俗」の世界にも積極的に関わってきた。ジョークは欠かさず、難解な用語を避けながら一般人にも分かりやすく自分の思想を伝え、「あずまん」というあだ名でニコニコ動画の視聴者たちからも好意を持たれているなど、

半ば日本の言論界において水商売的なアイドルに近い地位を築いたと言える。

 柄谷行人&浅田彰に怒られろー。空しきアイドル哲学の末路。

「庶民派」哲学者として真摯に啓蒙に励んできた、日本では数少ない哲学者であり、彼の創設したゲンロンカフェの存在感も日増しに強くなっているように思える。

 リベラルの失墜した時代などと叫ばれている今日だが、つい最近に起こった、東浩紀と津田大介との間に起こったひと悶着や黒瀬深事件は、東浩紀の人望と、いかに左翼知識人たちが人々の心を掴めなくなってしまったかを如実に表す事件となった。

 

 

 私はこの事件において、二人のやり取り自体よりも、リベラル・保守・ネット論客・大学人がこの事件をどのように受容したかがポイントであったと考える。右派側からは、「リベラルなのによくぞ津田大介を批判した!東浩紀はまとも!」といった声が主流だったように思う。反対にリベラルや左翼は津田大介を擁護する傾向にあった。東浩紀嫌いの町山智浩は案の定彼をこき下ろし、一部の大学人は

東浩紀と茂木健一郎を

「逆張り芸人」と非難した。

 この事件を契機にいわゆる「クソリベラル?」と右派との間の溝はより深まることとなったが、東浩紀は右派側からの株を上げ、自分の創設したゲンロンがいかに「クソリベラル」と縁を切った、

「クリーン」な空間であるかを

PRすることに成功した。

彼はこれらの事件を巡って様々な誹謗中傷が自分に飛んできたことに対して心底うんざりしているとTwitterではこぼしていたが、津田大介や町山智浩に対するアンチの量を見ればわかるように、様々な層から支持者を集めている彼は、一人勝ちに近い状況へ着実に進んでいる。

  個人的に私は、彼らの偏狭な党派性もあって、町山智浩や津田大介に対して批判的であり、ずっと東浩紀を評価している。それはあの「ゴー宣ネット道場『コロナ禍、緊急鼎談!』に参加した後も変わっていない。しかし一連の事件を眺めていたら、拭い切れなかった違和感を書かずにはいられなかった。

 地獄に堕ちるであろう

詐欺師パフォーマー東浩紀というバケモノ

  まず単純に、なぜここまで左派に対して容赦しないのか? という疑問がある。なるほど、東浩紀は左派からの批判に対して「黒瀬深だろうと誰だろうと挨拶くらいしようが勝手だろ」と一応答えているが、これが納得できる反論になっていないのは当人も知っているはずだ。問題なのは、「明らかに反社会的な活動を行っている人間ですら受け入れるその度量の広さが、なぜ自分や自分の会社への毀誉褒貶という話になると一切機能しなくなるのか?」ということである。

 そんなこと答えるまでもないだろうと彼は言うかもしれない。創業者としてゲンロンを必死に守るのは当たり前だし、万が一自社の損益に害が及んだら、ゲンロンカフェなどを通した「知の対話」のこれからの見通しが失われてしまう可能性があるからだ。もちろん営業は重要であり、それを守るのは創業者の権利、いや義務でもあると言える。しかしそれは、企業人としての常識なのであって、果たして言論人の使命であると言えるのだろうか。

 左派や「クソリベラル」の党派性が社会に負の影響を与えているから批判するというのであれば、当然小林よしのりや黒瀬深のように時に憎悪や明らかな嘘を社会に拡散する人間も徹底的に非難するのが筋だろう。なぜそれをしないのか。答えは簡単である。

彼らが東浩紀を大好きだからである

(高学歴社会性ゼロと低学歴コンプルサンチマンの末路)。

たとえヘイトやフェイクニュースを外でばらまいていようが、自分やゲンロンカフェを批判しないのであれば大目に見る。これが東浩紀の悪烈卑劣なる地獄に堕ちるであろう手法である。誤解を避けるために書くが、私はこうした彼の幼稚な振る舞いを否定するつもりはない。しかし、東浩紀の行動は明らかに透明ではないし、右派が誤解しているような「中立的でまともなリベラリスト」でもない。それが悪いとは言わないが、実際そのようなイメージとは違うのだということだけは事実である。

 しかし先に述べたように、もはや今の日本社会は、いや国際社会は、非の打ちどころのない正論や、専門的な意見だけを伝えておけば社会の多くの人間は理解してくれるといった、悠長な世界ではない。大学の学会などにおいてはそれで充分なのかもしれないが、人々の広範な支持を集めるとしたら、右派勢力にもある程度秋波を送らなければ対話というものが成立しないのが現状だ。たとえ東浩紀の一連の活動が、多少下心を含んだ「パフォーマンス」であるにしても、今の絶望的な現状を前にすると、そうしたパフォーマンスは全否定されるべきものなのかと、僕は考えるのだ。

  ただ、パフォーマンスがパフォーマンスとして理解されることなく、「東浩紀のような一部の『まともな』人間は例外としてリベラルは自滅していく」だの、「反知性主義者と組んだ堕落した東浩紀」などといった、表面的なストーリーに拘泥している左派・右派の人間があまりにも多く見受けられるように思うのだ。東浩紀に個人的な損得勘定が無いなんてことはあり得ないが、「ネトウヨとつるみこのままオワコンとなる」などということも同様に無いだろう。ぞっとするような立ち回りの上手さを生かし、大衆に魅力を与えつつ言論のクオリティも高く維持するという離れ業をやってのける、これからの日本で唯一の人間なのではないか。そんな気がしてならない。

  繰り返しになるが、最近の東浩紀の行動は決して公正ではない。しかしこれまで述べてきた事情を踏まえれば、僕たちは彼の「逆張り」発言などに過敏に反応する必要は無いし、ましてや「完全に金儲けに走ったのか!」と怒るのも得策ではないだろう。そんなことをすれば、待っていましたと言わんばかりに、東浩紀から「ほら、左翼ってうるさいんだよ」などと「ダシ」として使われ、彼のフォロワー全員の前で生贄にされることになる(本当の強者はブロックするという地獄に堕ちるであろう幼稚な50歳児。恥ずかしいって言ったらありゃしない)。しかも忘れてはいけないが、彼の背後には既に右派の勢力も存在するのだ。もはや東浩紀に正面衝突できる敵はいない。

 彼はまさに「清濁併せ呑み」、言論界においてますます確かな地獄に堕ちるであろう最強な足場を築いていく。

あぁ!ニーチェ的ルサンチマン!あぁ!ヘーゲル的奴隷という名の王様!

 落合陽一をイジメるのはもうやめろ。

若者が虐めていると嘘をつくのももうやめろ。

 この強かに論理とマーケティングのオンラインサロンを嗤う最も醜悪なオンラインサロン野郎が。

 論理的じゃなくても

しっかりと自分の熱い言葉で語る

「クソリベラル」が果たして本当の悪か?

 最初に述べたが、「全体」として見れば東浩紀とゲンロンが、批評を通して日本社会に良い結果を与え続けるだろうとは思う。しかし、成熟していない「青二才」、スキゾ・ニーチェの僕は、どうしてもいわゆる「クソリベラル」の人たちをつい擁護してしまうのだ。

 お勉強ができるだけでなく、人格も優れていなければいけないというのはその通りである。インターネットによって可視化された知識人たちの問題点は、これからも批判されるべきだ。「知識のない奴はほっとけばいい」などといった態度には限界があり、それらが結果的に反知性主義者を育てることに手を貸したということも、リベラリストや左翼は強く認識しなければいけない。しかし僕は、「クソリベラル」への批判があまりにもテンプレ―ト化した結果、「豊富な知識どころか、最低限としての品性さえ欠けている人間」への評価が大目に見られるという新しい現象が生まれたことも問題であると感じる。

 本来は、人は知性と徳のどちらも備えていることが望ましく、もし偏りがあるなら欠けている方を補い、できる限り完璧に近づけるということが求められるべきだろう。しかし、「大学教員だの知識人だの、人格が腐っているなら、自分たちと同類じゃないか」という開き直りの態度が広がることとなった結果、さらに「人格に問題があるくせに、知識だけは一丁前に身につけていやがる」といった、「半端な態度を取るくらいだったら、不寛容で反知性主義の方がまだ潔い」という別の方向へチェンジしてしまった。 このような傾向は止まることが無いだろうし、日本だけでなく世界中で加速していくと僕は予測する。これまで権威側にいた大学教員や、社会的な成功を収めていた左翼の知識人たちにとって、これからはますます肩身が狭い世界となるのではないだろうか。

 かつては左翼やリベラリズムこそ反体制で、弱者の味方であり、反対に右翼は体制側で、社会的強者というポジションにいた。それが今ではすっかり逆転し、左翼こそ体制維持に居座り、右翼はかつてのリベラリストのように体制に意を唱えている、これが保守や東浩紀の指摘である。しかし流行や思想の潮流が目まぐるしく変化する今日において、こうした構図もまた変化し、再び左翼が社会的弱者に戻る日が既に来ているように感じる。つまり360°回転した結果、再び本来の左翼・右翼の構図に逆戻りする日は近く、いや既にそうした構図は半ば達成されているだろう。様々な要因もあって、リベラルの信頼は失われている。

 これはTwitterの右派論客のような「インフルエンサー」の出現だけに留まる話ではない。僕が個人的に接した大学の同級生からは、デマやあからさまな歴史修正主義に踊らされることはないが、政治思想において中道よりもやや右に傾いているといった印象を受けた。もはや、リベラルへの反発意識は、理屈の問題というよりも、大多数の人間の趣味嗜好の変化という形をとって広く表れている。 僕はこうした傾向を決して憎んでいないし、リベラルに対する反発も理解している。それに既に述べたように、こうした現象は世界規模で進んでいるため、ある意味起きて当然の歴史的な流れの一つなのであり、また、そこまで危機感を持っているわけでもないのだ。

 右派ポピュリストの出現だけでなく、いわゆる「ツイフェミ」や「アベガ―」といった、リベラルの価値観をかすめ取った差別主義者の出現も同じ潮流に属しているのだろうが、では彼ら彼女らの出現によって、再び軍国主義や大規模のファシズム勢力が生まれのかとなると、だいぶ怪しいだろう。「大衆の反逆」のもっとも極端な例は、20世紀のナチズムなどによって既に実現され、挫折している。僕たちはリベラルの価値観を何の反発もなく受け入れるほど強靭にできていないが、かといってナチズムほどの反知性主義に堕ち切るほどの憎しみや情熱もない。少なくとも日本や欧米などの民主主義国においては、殊更に強調され非難されるナショナリズムの高まりやポピュリストの出現も、激しい暴力による衝突などを伴わず、それに乗じる勢力も反対に非難する勢力も、お互いにぐだぐだとしたまま不完全燃焼に終わるのではないか。これが僕の予測である。

 リベラルや左派は、日本の右傾化、アンチフェミニズムの出現、反知性主義の登場といった現象を、「所詮大衆は馬鹿なのさ」と切り捨てるのではなく、ではなぜリベラルが魅力を失ったのか、なぜフェミニズムが男性だけでなく女性からも反発を受けるのか、なぜ人々が専門家の話を聞かずに、ひろゆきやDaigoなどに影響を受けるのか、といった風に、それらの現象を問題提起の一つとして受け入れていくべきだ。

 しかしそれと同様に、ではなぜ大学教員や左翼たちは、膨大な知識を持っているにも関わらず、時に幼稚な口調で反対意意見を攻撃し、自分達に対する批判を即座にブロックするようになってしまったのか、そのことも僕たちは考えなければいけないだろう。「知識も無ければ品性も欠ける」人間が擁護され、喝采を受けるのに、なぜ左翼や「クソリベラル」は今の社会への問題提起として吟味されてはならないのか。Twitterなどにおいて、ろくに物事を調べていない匿名の人物から度重なる誹謗中傷を受けていてもなお、自分は決して感情的にならずに相手と対話を続ける、そんな聖人君子の存在の方がよっぽど稀であり、左翼や知識人が時に差別的な意見や口汚い非難を漏らしてしまうのもある意味人間として自然なことではないのか。もちろんリベラルを批判してはいけないという話ではない。そうではなく僕は、「リベラル叩き」が常套手段となった今日において、僕たちがまだ取りこぼした問題があるのではないかと思うだけだ。

業界のヤクザ的SNS炎上商法

「総会屋2.0」として

タブーとなる東浩紀とゲンロン

 古い形でのリベラルが次々と失墜していく中、それと反作用して、東浩紀とゲンロンの存在感はますます大きくなっていくだろう。一部の過激な勢力は例外として、左派からも右派からもある程度人望を集めている東浩紀とゲンロンの躍進は止まらない。反政権だろうと政権維持だろうと、様々な立場からの意見や批評が、ゲンロンというるつぼに投げ込まれ、雑種で豊かな知の交換が観客たちへ発信される。ただし、東浩紀やゲンロン自体に対する批判はタブーとして。

 「右翼でも左翼でも、大歓迎。何か物申したい意見があるなら、どんどん発信していいよ。ただし、ゲンロンカフェを介してね」。 「フェミニズムでもアンチフェミニズムでも、俺は大学人と違うからいくらでも受け入れるよ。ただし俺個人とゲンロンを批判するなら、徹底的に潰すよ」。

おい50歳児。

お前は偽善ヤクザか?

こうした、よく考えてみれば決して公平でない東浩紀のスタンスは、彼の熱烈な信者や、彼のリベラル批判によって魅了された右翼にとっては、全く問題でないのかもしれない。しかし東浩紀からも一歩身を引いて思考していかなければいけない人間からすれば、これが新しい言論空間において立たざるを得ない、過酷な二者択一である。

  ここで丸山真男の「日本の思想」の「『である』ことと『すること』の違い」から、ある一節を引用したい。

  

  本当に「おそれ」なければいけないのは、議会否認の風潮ではなくて、議会政治がちょうどかつての日本の「國體」のように、否定論によってきたえられないで、頭から神聖触るるべからずとして、その信奉が強要されることなのです。およそタブーによって民主主義を「護持」しようとするほど、こっけいな倒錯はありません。タブーによって秩序を維持するのは、古来あらゆる部族社会―「である」社会の原型―の本質的な特徴にほかならないのです。

 きっと東浩紀は僕のような人間にこう反論するだろう。「甘えるな。自分を批判してきたやつを批判し返すのは当然だろ。そっちは俺やゲンロンを批判しているくせに、いざ批判が自分に回ってきたからってパワハラだとか言うなよ」と。しかし僕が言いたいのは、東浩紀が主張するように問題点を指摘することは健全な批判であるといういわば「常識」に則った活動が、なぜ彼は自分に批判的ではない人間に対しては向けないのか、という話である。

 言論界の大御所である東浩紀を若手は批判しにくいという話ではなく、最近の東浩紀やゲンロンは、パフォーマンスを兼ねた右派との共闘や、様々な方便によって支えられている部分があるのに、それをあたかも何の下心もない、無私の言論活動の成果であるように信者や右派を騙すのは、欺瞞ではないだろうか。これが、東浩紀の一連の言動を眺めていた結果、僕が抱いた違和感である。

  僕たちはもう彼の発言に一喜一憂することは控え、適切な距離をもって「東浩紀現象」を批判的に眺めていこう。彼の政治的なパフォーマンスに腹を立てる必要はないし、「さすがあずまん!俺たちのこと分かっている!」と無邪気に喜ぶのもまた愚かだ。

  日本の経済はこれからも悪化の一途をたどり、教育への関心は薄れ、人文学の地位は減少し続けるだろう。中国はとっくに日本を追い越したが、韓国も日本との差を縮めつつあり、自信をつけた両国のナショナリズムと、日本のナショナリズムとの軋轢は激しさを増すだろう。この絶望的な状況の中、哲学や批評の最後の砦として、東浩紀とゲンロンの果たす役割は大きい。

  「俺を批判したいリベラルは当分静かにしていろ。大衆の反応を見れば分かるように、結局お前らは失敗しただろ? 俺が上手く言論空間を復活させるからいい加減任せろ」

 こんな風に彼は思っているのかもしれない。その通りで、きっと上手くいくのだろう。あの「ゴー宣ネット道場『コロナ禍、緊急鼎談!』のように、人々からの喝采を集めながら。

 ただ忘れてはいけない。

 どんな栄光にも人には知られない影がある。誰からも見向きされない立場に転がった「クソリベラル」という生贄なしには、その栄光は欠けてしまっていたかもしれないのだ。保守や一定数のリベラルからも取りこぼされた人間がゲンロンの「ダシ」に使われたという歴史を、僕たちは記憶しておこう。そうした東浩紀やゲンロンに対する批判精神が、皮肉なことだが、回りまわって「良質な観客を育てる」(動物化するブロイラー?)というゲンロンのコンセプトと一致することになると言えなくもない。

 僕は弱者男性だ。何も才能もないし、今にも人生で死にそうなぐらい大変だ。この文章でこの世を去るかもしれない。

 が、だ。

 その前に、マジで言わせてくれや。

 東浩紀。

 お前はどんなに成功しようが失敗しようが、きっと

地獄に堕ちる。

 そのことは忘れるな。たとえ弱い俺、そして不器用だが熱い町山智浩がいつか死のうとも、だ。

 

遺書に迫る思い。享年2021年8月14日。