ひろゆきを超えたキモすなつとむ会は悪くないっスね〜。 〜20年代の想像力はここにある〜

 全く一ミリも心象的友情感情はないが、この組織の発想は理にかなっている。

 100点中、80点。

 というよりも、落合陽一&古市憲寿にある種は負けてしまった宇野常寛と東浩紀、カオスラウンジができなかったこと、90年代やゼロ年代の哲学史、批評史の実践を

 歴史の後継を

彼らだけができたのだ。

 なぜ東浩紀や宇野常寛、黒瀬陽平にはできなくて、彼らにはできたのか。

 それは、

東浩紀と宇野常寛は

才能を捨てたからである。

 本当に東浩紀が哲学が好きなのなら、カントやマルクス、そういったところまでやはり語らないとならない。が、

デリダ→IT、オタク というひたすらにキモすな価値相対化をしすぎた結果、

意地でも哲学の不可能性というところに埋没する弱さがあるのだ。

 宇野常寛さんも本当に糸井重里が好きなのなら、虫遊びのような微温すぎる批評で終わりにせずに、糸井重里のようにMOTHERを作ったり、ほぼ日手帳を作ったり、情熱のペンギンごはんを作らないとならない。

 そう。

 本当のヌルいサブカルチャー系、糸井重里の本心は、白けたフリをした全共闘世代からの大反省というかなりの屈折があったからだ。が、宇野常寛さんにはマルクスの風も、そして、オタクであった反省も見当たらない。

オタク→マルクスの匂いを消した擬似的な糸井重里風偽カルチャーへまんまと逃げ通した。

 両方とも、なぜ自己の歴史修正主義者で、歴史をつなげる努力を怠っているかと言えば、自分たちの最適化がまず優先されているからだ。

 もちろん悪いとは言わない。

 彼らは本当のオタクでも哲学者でも糸井重里的マルクス主義者でもなんでもない。

 ただお利口な、小器用な方々だったのだ(もちろん彼らは彼らで、歴史を捨てるという点の深い哲学性もある)。

 ただ、

 大塚英志や宮台真司、柄谷行人、ジジェクには歴史がある。そこに教養がある。

 ここで、つとむ会がどうやって

ゼロ年代思想を

現代批評2.0に

アップグレードしているか?を解説しよう。

彼らは、ゼロ年代、東浩紀&宇野常寛的なワガママ主義の反省から、

柄谷行人&浅田彰的過剰本物思考、ジジェクでそのオタクカルチャーの欠点を補うという

新たな批評の言語を彼らは作ってしまったのだ。

 ここで、彼らがプラグマティム、どこまでもオタクなのは、彼らが東浩紀や宇野常寛と違って

オタクコンテンツをカルチャーを

どこまでも深く愛しすぎているということだ。

 だからこそ、そのオタクカルチャーへの溺愛の欠点性、非社会性に気づいて、過剰に柄谷やジジェク的なもので反省するという方向へ向かったのだ。

 ここで面白いのは、つとむ会は、

柄谷行人2.0である。

トランスクリティークの現代日本版を彼らはやっているのだ。

 簡単にトランスクリティークを要約すると、ミクロとマクロ、カントとマルクス構造主義、文学と政治、カント的に自己反省をして、一方でマルクス的に社会のパラドクサを見つけ、できる限り、社会へ繋がれというのが、彼らの発想法である。

 つまり、

 柄谷行人が行ったカントとマルクス構造主義、そこに、オタクカルチャーと批評史の教養を代入してしまおう。ほら、彼らのやっていることは、柄谷行人を現代でやるとしたらどうなるのか?という一つのプラグマティズムの回答なのである。

 そして、

 つとむというのは、宮崎勤というオタクの性犯罪者の名前だ。その名前をあえて出すのは、

 橘玲的、今でいう不謹慎系YouTuberの倫理、哲学と同じである。

 つまり、個人の問題に埋没するクソヘタレのZ世代の現代若者を露骨に露悪に出すということである。

 まさに、古市憲寿的な倫理がそこにある。

 古市憲寿が馬鹿だと思う方々は是非、彼の批評を読んだ方がいい。

 私がつとむ会で驚いたのは、カオスフォレストとだいきの講談という一見すると対立している、というよりも今も本質的にはしているであろうどこまでもキャラが真逆の批評系YouTuberを並べたことである。

 普通だったら、だいきの講談とカオスフォレストは対立する。が、柄谷行人と浅田彰、東浩紀と宇野常寛、浅田彰と中沢新一、落合陽一と古市憲寿、國分功一郎と千葉雅也、宮崎哲弥と宮台真司のような関係性として批評しているということなのだ。資質とキャラは対立しているが故に、時代性や匂いは同じなのである。

 だいきの講談は過剰に社会の空気を無視して、アナーキズムや哲学の難解な本を紹介するが、あまりに社会の流れを無視する見えない暴力性、流されなさが彼には良い意味である。

 カオスフォレストは過剰に社会の空気に適応して、過剰にバンバンと批評家と不謹慎系芸を連発するが、過剰にコメントに対応する一回りした根源的な社会性がそこにある。

 だいきの講談とカオスフォレスト、つとむ会は、今の現代環境、でどう現代哲学を振る舞うかという適応のそれぞれの形なのである。

 彼らは

暗黒啓蒙になりそうで、

なれなかった。

 なぜか。

キモスな萌え豚だからだ。

 ここにゼロ年代批評2.0、20年代の想像力、純白啓蒙のポテンシャルがある。

 暗黒啓蒙は一見すると、邪悪な思想に見えるが、良くも悪くもヌルいのは、オタクの怖さだけを表面的になぞっているだけで、オタクのようでおたくではないのだ(もちろん暗黒啓蒙の問題提起はかなり良い線でそこは実は高評価だが、だいきの講談やつとむ会のような論理、ユーモアが彼らにはあまりない)。

 つとむ会には、アクロバッティックなニーチェ的なユーモアがある。

 つまり、ニーチェをアイロニーではなく、ユーモアとして読んでいる。

 柄谷行人はよく俺はボケを入れる批評家だが、そこの目線が彼らにもある。

 そう。

 ニーチェの代わりに、ゼロ年代の日常漫画、ネタや日常、

終わりある日常

を愉しむ

ということなのだ。

 彼らの純白啓蒙(©︎古田更一)は、宇野常寛のゼロ年代の想像力の要の重要性をアクチュアリに後継している。

  終わりある日常だからこそ、

この一瞬を永遠にして見せる。

 だから故に、彼らの人生はキツイからこそ、笑いと感動に溢れているし、キツくないカップラーメンを啜る時に、きっと笑と感動が溢れているのだろう。

 彼らはインフルエンサーになれなくていい。

 そんなことをしたら、せっかくの日常が台無しだ。

 いや、フォロワーは稼ぎたい。

 が、だ。

 その前に、日常をワイルドに楽しまないとならない。

−20点の理由。

 ほぼ完璧でこれ以上は言うこともないし、ここを治してしまったら、元も子もないが、

 彼らは実は相対主義者に見えて、全くの東大生な神経症的なところがある。

 つまり、

速度神経症なのだ。

 シラけることに集中しすぎている一方で、良くも悪くもオタク=マルクスという固いアイデンティティーに固執してしまい、その教養という重力の罠が逃れきれない危険性もそこにある。

 柄谷行人のように安易なデモに行ってしまったように、あまりにオタク=マルクスという新たなアイデンティティに固執してしまい、カントーマルクス構造主義の夢が消えて、スタティックなラカン的構造主義で踏みとどまってしまわないか。ラカンは壇上で「私は対象aを見つけた!」と叫ぶパーフォマンスをやったという話もある。僕たちはあくまでラカンで満足するのでなく、ラカンのように壇上で素直に笑うためにラカンをプラグマティズムに読まないとならない。病理の発見、パラドクスのキツさは、あくまでやりすぎると、笑っているのか泣いているのか分からなくなる危険もそこにあるのだ。もちろんミイラ取りがミイラになる、元気なオタクが宮崎勤になるのは自明に気をつけていることだろうが。

 よくある話だ。橘玲の80sでもバンバンと人が死んだり、苦しんでいた。鬼畜カルチャーの末路。

 つまりー、

 アルチューセルのように他殺せず!

 ドゥールズのように自殺せず!

 フーコーのようにエイズで死なず!

 速度に酔わないようにあくまでそこも注意しないとならない。ラカン的臨界的のリミットに立つものは、あくまでラカンのテキストをふざけた数式で書いた自分で自分を笑えるユーモアのあるラカン自体のようにならないとならない(もちろんソーカル事件も少しは正しいが、ラカンの難解さや数式は良くも悪くもユーモアだろう。それを神経症的に読み取るのは、間違いだ)。もちろん彼らのように弾けてもいいが、その危険性、「象徴界」を心理学者の河合や村上春樹のように取り戻す作業も保険として、もしくは捨てた梯子として意識した方がいいかもしれない。

 アイロニーの相対主義のやりすぎが、アイロニーへの依存という形、オタクというプライド、絶対主義が、ある種、キモスなオタクな自分たちは東浩紀や宇野常寛に勝てないのだ、どうせ…になってもらってせっかくの武器と武器庫が自滅してしまう。

 その自滅だけは避けた方がいい。

 賢く生きた宇野常寛&東浩紀も大変尊敬できる方々だし、彼らオタク第3?世代は、良くも悪くも、自滅はしない攻撃性&防御力はある。アイロニーとオタクで自分を不謹慎系と評するのは、僕もそうだし、だいきの講談は過剰に社会の声を無視するところがある。が、場合によっては、全員とも「あえて」社会は無視しているのだという事実を忘れてはなれない。本当の脱社会性、宮崎勤にはなってはいけないのだ。

 僕たちは、宮崎勤よりも大塚英志&宮台真司&橘玲にならないとならない。もしくは柄谷&浅田&ジジェクにならないとならない。歴史を見るものは、歴史のプレッシャーに悪い意味で潰れてはならないのだ。

  今の若い子は、もしくは、ゼロ年代批評までの批評で生きていきた人々、20、30代はきっと生きづらいと思う。なら、是非、ヘルメスのほがらかな微笑いに満ちた彼らの活動をウォッチするべきだろう。

 落合陽一&古市憲寿、そして、彼らを踏み越えただいき&古田更一という2つのパラダイムに乗り遅れないためにも!

 安心してくれ、遠藤チャンネルや安藤チャンネルといった古田更一の兄貴分も彼らはリファレンスしているし、中沢新一やたれぞう、シバター、蓮實重彦、vutuberまでリファレンスしている。

 大事なことは、

終わりある日常の風!

 コロナ禍に必要なのは、

 ユーモアと終わりある日常という毒のある日常である。