才能も努力も無意味。〜まつたけ大王というフランシス・ベーコン〜

 最近、努力こそが楽なんじゃないか、と思えるようになってきた(マイケル・サンデルの運は実力の内は読んでない)。

 もちろん、才能も、だ。

 矛盾しているようだが、才能と努力は同じだし、だからこそ、どちらも必要ない気がしてきた。

 具体的に話しましょう。

 馬鹿にしているわけでもないし、良い意味で赤の他人だから、まつたけ大王やつとむ会、うは観察対象として面白い。

 殆ど動画投稿もせず、ネタツイを繰り返し、要するにあえて冷笑やネタもやっているかもしれないが、それにしても中身がない。

 ただ、ここで面白いのが、彼らは福本伸行の銀と金という真面目漫画の名称やラカン、柄谷行人といった核心に迫った単語もカツドンや二次元美少女と同義に話していることだ。

 要するに、

 彼らはラカンや柄谷行人の言っていることを直感レベルや理屈レベルで理解できるには、知性が高いということだ。

 が、代償に、何かを失っている気もする。

 そして、高偏差値集団、俗物の教養系YouTuberたちは、たくさん本を読んだり動画投稿しまくるにも関わらず、本質レベルでラカンや柄谷行人の言っていることに向き合わないから、ある種、動画投稿しまくる努力はしても頭は動いていないから、サボり続けているかもしれない。

 前者は書籍をしっかり読み通す質の努力をして、量の努力を怠り、ネタツイばかりして、後者は書籍をしっかり読み通せないけど、真剣に量の努力を日夜頑張っている。

 ここで言いたいのは、どちらが上か下かではなくて、自分の主観を自覚する不可能性からどう他へズレるか、もしくは自分の主観を徹底して、努力≒才能という本質に気づけるか?のような気がする

 アナロジーで答えれば、僕は鬱陶しいキャラだからこそ、意匠として毎日投稿ができるわけで、本質的には、毎日投稿をしている自分自体を疑いながら毎日投稿してるから、批評性は宿るが、もしベタに毎日投稿をしたら、言葉の自動機械だろう。

 ここで言いたいのは、成功とは何か、

努力と才能に違いはあるのか、だ。

 浅田彰の構造と力の真ん中あたりを読み通せない人々はカオスフォレスト視聴者に多い。それは文字が難しいのではなくて、ラカンのおっしゃることが良くも悪くも知覚できないからだ。

 そう思うと、ラカンが分かることはすでに一生努力しなくていい才能を得るけれど、何かを失うことかもしれないし、東浩紀の周りにいる視聴者たちにセンスをあまり感じないのを見ると、東浩紀を精読できるのは、幸福かもしれない。

 AI、東ロボくんは偏差値60のマーチに入る学力があるという。

 もちろん最低限の情報処理能力は必要だが、AIを前にした時に、良くも悪くも、努力しろとも才能が全てだよとも言えなくなる。

 なぜなら、知識社会においては、平均はゾーニング、もしくは気づかれない形でAI的想像力の下請けになるからだ。

 コロナ禍はテクノロジー的パラダイムに適応できるできないか、という近代の人間観を揺さぶるものだった。

 これからは、曖昧な人間たちはいらなくなり、他人のゲームから自分のゲームへスライドする。

 その時、いや、今この瞬間から努力や才能の定義が変わってしまった気がする。

 ラカンはコロナ禍において、最も重要な思想家だ。

 が、ラカンが分かることは、もはや良くも悪くも劇薬であって、分からない人間は分からないなりにどう対ラカン的問題と向き合うか、分かる人間は分かるなりにどう対ラカン的問題を知った上で生き抜くかが重要な気がする。

 ここまでくると、

 生きることの荒々しさに向き合うか、向き合わないか、それをシンプルにしたか、だけが重要な気がする。

 努力したか才能かという空虚な二元論ではなく、自分のキャラという宿命の上が勝手に努力もして才能もして、勝手に物事が動く中で、けれど、自覚的に。

 カツドン的ギャンブルの想像力が今は重要な気がする。

【追記】

 確率は大事だ。

 が、確率を知ったからこそ、確率で人生は巧くいかない。人文知的な自慰行為では、ない。むしろ、人文知の快楽、そして、劇薬。

 ギャンブル、

人生の本質。

 

 数理な確率やカント的な哲学を知った上で、だからこそ、自分の限界≒可能性を知った上だと、努力が努力じゃなくなり、才能が才能ではなくなるのでないか。AIは24時間偏差値60を解けるが、何も考えていないし、究極のそのものではないか。

 才能は才能でなくなるし、努力は努力でなくなる。これは、人生を諦めろではない。

 今ある才能や努力をいかに生かすか、もしくはいかに生かさないか、は同義なのだ。