【発達障害を巡る冒険】普通の読者は私よりADHD確定.ADHD検査に落ちた話。〜古田流躁鬱反ライフハック〜

 自分としては、東大=馬鹿や健常者=非健常者、男=女という言語的なフィクションとそれでも科学的な頭が良い人間≒頭が良くない人間、健常者≒非健常者、男≒女だと批評していて、

 世間の人々は宗教的な学歴や障害者キャラ、性別にとらわれていて、

 厳密な意味での知性や障害、性別を判断できていないように感じる。

 私は親の人文的な誤読に振り回されてデカい大病院までいって、精密な検査を受けた。

 んで、結果。

 ADHD

じゃなかった。

 母親はキーキー悔しがり、終始、ADHDだとエヴィデンスがないし、今読んでいる検査すら受けずに障害者や鬱病キャラを気取るADHDキャラな読者たちよりも遥かに僕はADHDではないということだろう。

 ちなみに。

 情報処理速度は早すぎるが、リスニングテストの成績が偏差値40ぐらいしかなくて、多少そこらへんの科学的な認知の低さはあるらしいが、あくまで足が遅いかどうかであって、障害者ではなかった。

 ちなみに、障害者は治せない。

 私は普段からマッチョだと一時期誤解されたが、とんでもない話で逆転オセロニアの未来の若者たちのようなSNSコミュニティにすべての人生と金を注ぎ、運営者が良い意味で管理しながらも、自足して発言する才能ないプレイヤーたち、課金厨たちをリア充だと評してきた(まつたけ大王のキャラどころじゃない頭の悪い非健常者と健常者をたくさん見てきた。世の中には本すら読めないし、それ以前はたくさんいるのだ)。

 科学的な意味における障害者や能力の低さは治せない。

 だけど、私はそれが、成功できないとは思わない。

 あくまで科学的な抽象的な能力の低さであって、社会から切断されているからこそ、ラカンや東浩紀を簡単に分かる幸福を手に入れるかもしれない。

 それにコロナ禍で騒いでいるのは、物語的な健常者キャラばかりだ。ニートや鬱病な方々にとっては、リモート化やLGBT擁護、そして今後発生するであろう付随するデフレな優しいカルチャー、政治は、むしろ弱者の方が生きやすく、そして平均的な文系のニッコマ〜東大生たちが生きづらくなってくる。

 これからの時代は落合陽一の言う通り、マルクスのタイムマネジメント、平均的角砂糖たちの努力主義から、ストレスマネジメント、外れ値もしくはニッチな1つのアイデアやキャラで生きやすくなる外れ値的個性経済学の能力主義へゲームがスライドしているからだ。詳しくは拙書、カオスフォレスト動 なまけ者のためのソシャゲ学入門をお読みください。(まあ俺は2つの平均エリートと能力エリートでリスクヘッジしたいから、どっちも過労死しそうなぐらい頑張って様々な潜在投資の貯金しているが、まあ皆がここまでやる必要はない)。

 とにかく科学的な社会が進めば進むほど、障害者や鬱病は生きやすくなるし、もちろん辛いことはあるが、ニッチややりがいが重視される個性経済学になるので、

 物語、宗教、哲学、文学、やりがいにおいて、

健常者と非健常者の立場は逆転するだろう。

 もちろん資格や技術、暗記が必要なバックオフィスは残っていく。看護師やプログラマー、やや法律家、不動産屋、天才的人文系学者などだ。

 ただ彼らはメディア操作が苦手で、メディア操作に長けていたら鬱病でもコンテンツを作って運が良ければ、もしくは、当たらなくても人生のやりがい的に自分でメディアを操作できる快感を得るのだ。メディアの自炊こそが、簡単にインフルエンサーや東大生たちに意識をコントロールされる技である。意外と健常者キャラたちの方が良くも悪くもできていない点で、認知科学的な非健常者、これから定義的に健常者になるかもしれない貴方たちが生きやすく可能性はあるのだ。

 そもそも心理学の祖、著名なプラグマティズムの1人、ウィリアム・ジェイムズをしっかり読めば、今流行っている俗流心理学がエヴィデンスや科学的な手法を欠いた印象論だと分かる。

 無理もない。

 20世紀には神経症が流行り、21世紀には躁鬱病が流行るな、と逃走論あたりで浅田彰や柄谷行人、岩井克人あたりが言っていた。

 そう、ADHDという病が流行るのは、近年の仕事環境で使い物にならないからであって、時代や環境を変えれば、使い物になるかもしれないし、今ここ20、30年でしか流行っていないのだ。バックオフィスが消えれば、ADHDという病は減少するし、重度はともかく、ADHDや鬱病はグレーゾーンで人によってまちまちだ。

 よって、健常者か非健常者かというパラダイムは基本的にないと判断した方がいい。

 また重度の患者は開き直り、才能に一点集中でダラダラと一発が当たればいいな、もしくは楽しく創作してその1つのキャラでずっとニッチ芸人をやっていたら、高校生たちが憧れるYouTuberになったも当然だ。

 そもそもニッチのYouTuberにすらなれない、東浩紀も読めないし中野剛志もしっかりは精読できないのが、普通の方々だからだ。

 もちろん普通の方々がいらないというわけでない。本当に優秀な人はそこそこまで健常者のパスポートをいただき、どこかで捨てて、非健常者的な独立をするという超充をするはずで、まあまずこんな優秀な方は東浩紀や古市憲寿、宮台真司、落合陽一、時田ロルフといった気味悪い一部の人間しか不可能だ。

 ただ皆はadoに憧れているが、申しわけないが、米津玄師はまだ教養を感じるが、adoさんは非健常者傾向のギャンブラー体質を感じる。まあ詳しくは知らんが、米津玄師は新しさを感じたが、adoさんは新しさや個性をあまり感じない。だから、これは運の問題で、でもマクロには皆がなりたい、けどリスクある人的人材に変人だとなれちゃうのだ。

 私が言いたいのは単純で、非健常者こそ敗戦処理的にいかに頑張らないかいかに頑張るかを明白に意識したビジネス本的発想、マネジメントが求められているし、様々な健常者の精神的敗北を見てきた自分としては、貴方たちは皮肉にもある種彼ら目線からすると恵まれているとすら思われているらしいのだ。

 もちろん辛いことは辛いし、印象論は続くだろう。が、あくまでストレスマネジメントとして印象論は多少使えばいいだけで、人生設計としては、印象論抜きに、才能やキャラでレバレッジし続けたほうがいい。そもそも非健常者は失うものが少ないため、レバレッジを賭けやすい。不謹慎系YouTuberやカツドン、坂口章はその成功例かもしれない(まあ彼らは健常者だと思うから、VTUBERとかかな)。

 治すのではなくて、どう生かすかという発想。

 もちろん健常者の高学歴弱者たちから鬱病な才能が欲しいという図々しいリクエストは多数受けているので、世の中本当に皮肉にできている。

 これからの時代は治すのではなくて、いかに努力せず、しかし、努力すべきところにレバレッジするか?そして、マルクスのタイムマネジメントから落合陽一というストレスマネジメント時代という新たな健常者/非健常者パラダイムへスライドしている。

 逃げろや、

 逃げろ。

 もしくは、

 闘え、

 闘え、

 闘い合えって、

 か?