大人のふりをした様々たる意匠の子供たち。しょせん宗教学者の不幸に騙されるな。王道こそ上達の道。デカルト、カント、ヘーゲルからやろう。

 マルクスをマルクスで勉強しようと思わないから分からないし、ニーチェをニーチェで勉強するから分からない。

 マルクスはヘーゲルを踏まえて考えると、分かりやすくなるし、世界史や日本史はヘーゲル的な発想であるので、逆に捉えると皆がどう行動するかは基本的に日本史や世界史のパラダイムであるため、コロナ禍を分かろうと思ったら、ヘーゲルまで遡った方が分かりやすい。

 そのヘーゲルをどう使うかでマルクスだったりジェジェク、ラカン、ニーチェ、世界史、日本史、コロナ禍になるだけであって基本的にはシンプルなヘーゲル的な弁証法や教養小説的発想をどう活かすかになる。

 が、基本をまず抑えた上でやれば全部がやりやすくなる。

 個人の悩みとかも基礎を本当に完了すればなくなって当然だ。

 そもそも自分が悩んでいるということ自体を懐疑するのがカントやデカルトの哲学のため、重度な鬱病じゃない限り、単に甘えているだけか遺伝的な疾患があるので、ラーメン食ったり運動したり下手に考えないで暮らした方がいいだろう。鈴木祐を読んだほうがいい。

 哲学をやる時点であまりにベタな悩みなど基本的にないのが自明にならざるおえないし、悩みの解決自体に迫る現代の病理を意識して絶望主義を提唱したが、そもそも絶望すらわかないぐらい哲学には思考しかない。

 ニーチェが流行るのは良いことである一方で、都合のいい自己正当化をあまりにベタに文学にしちゃうのは、哲学ではなくて、単にヘタレなだけだ。

 だからこそ、ヘーゲルの良い意味でのスタティックな愚かさやデカルトやカントの精密さ、プラグマティズムのチャランポランさの方がずっといい。

 ニーチェはすばらしいが、あくまでギャグ小説である面は高いだろう。

 基本的にイノベーションは初期に出尽くされているので、まず基礎からやらなければ意味がない。

 救済を求めすぎる人々が厄介なのは逆ギレめいた詐術に近いからだ。

 好き好き助けて助けてと言いまくる弱者に依存することこそ、相手に強者であれ!と脅迫しているのだ。逆に助けてくれないと分かると攻撃を弱者から振り回す、まさに弱者こそ強者なのだ。

 ニーチェをまたずともヘーゲルが言っている。

 落合陽一やマルクスガブリエルは近代化は無理とほざくが、絶妙には彼らは自分たちの弱さを棚にあげて、まあ近代化は無理っしょとほざきながら、自分たちは強者ぶるのは単なる欺瞞だ。

 左翼やリベラルが無理なのは自明だし、ケーキを切れない子供の通り、そもそも考えられない人間はたくさんいる。

 だが、左翼やリベラルをあまりに軽視するわりには中途半端に自前の理屈で成熟しろというのは限界がある。やはり西部邁も中野剛志も藤井聡も哲学の教養がしっかりあり、王道の哲学に関心ないのは単に予め敗北が決定づけられているだろう。

 物語や文学に悪い意味で惑わされるのは日本史や世界史の奴隷、フィクションの奴隷であって、真なる理解とは言わず、それは宗教だ。

 馬鹿ではないし優秀だが、中沢新一の亜種が落合陽一であってマルクスガブリエルだろう。

 彼らの有効性はありながらも、根本改善には必ずならない甘えた素朴さが強いからだ。

 落合陽一のように鬱病ぎみで不眠症で人生を成功しまくっても根本が間違えているから一生苦しむ覚悟があるなら構わないが、覚悟なき人間は宗教すらまっとうにできない。

 その点、悪い面良い面含めて今でもカントやデカルト、ヘーゲルはある意味新しい。

 宗教は所詮は宗教なんだから謙虚に二流をやってろよ。セラピー程度が中途半端にいや滑稽に世界の問題だとほざいても何も始まらない。

 覚悟あって二流をやるなら、ある意味一流だが、カントやデカルト、ヘーゲルが言っていたおうどうを無視して、ニーチェや落合陽一の素朴さに噛みつくのはそれこそカルトだ。ちなみに落合陽一には覚悟があるため一流だと思うが、大半の右派左派はウハウハというか、覚悟がないため、単なる宗教だ。

 黙れ。

 知らん。

 セラピーへいけ。心理学へいけ。

 セラピーや心理学が悪いとは言わない。問題を混ぜることがセラピーや心理学すら愚劣しているのだ。

 まっとうに王道を志す姿勢があれば、左翼やリベラルも可能であるが、むしろ故にこそ少数でいいのだ。