Twitterが新しく馬鹿馬鹿しいことは自明だが、馬鹿馬鹿しさの上でどう転ぶかは「賢さ以上」に重要な気がする。

 基本的にTwitterに流れてくる情報の殆どは役に立たない。

 毎年、似た心理学ライフハックが流れて、毎年、似た政治批判が流れて、また次の年も何も問題が解決される、いやむしろ問題は悪化している形で繰り返されるからだ。

 Twitterで情報収集しようと思うのは、あくまで理屈は諦めた方がいい

 反省しろ。

 皮肉なことに、うつ病や障害ライフハックのTwitter垢はフォロワーを獲得しまくる一方で、結局、根本では治らず、依存して毎年同じ情報を浴び続けて、問題解決をしないからこそずっとずっとずっとインフルエンサーの情報に弱りながら依存するしかないのだ。Twitterの情報は細切れで吸収効率も悪く、ここから情報を1年間集めるよりも、本1冊を1日で読み通した方が遥かにたくさんの情報を得られる。

 Twitterはむしろ頭が良い情報こそ殆どが、罠なのだ。

 むしろTwitterは今どんな人間たちがいるのか?という社交の場として使うべきで、ここでしたり顔で難解な正論ツイートをしても殆ど無意味である。ただこういったくだらなさをあえて見せるために、過剰に相対化するためにあえてマジレスなツイートとネタツイを繰り返してレベルを落とした上で話しをしているが、基本的に今何か起きているかをメタ的に覗いて利用することがTwitterの役割だと思う

 暗黒啓蒙や東浩紀、コロナ自粛、アンフェミが正しいか正しくないかはともかく、

 今この場でどういった人間たちがいてどういった行動パターンを辿っているのかを逐一観察することが重要になってくる。

 ここで大事なことは、いいねを押す体験よりも、これは違うのではないか…と思う体験の方が重要なのだ。

 また、案外のところ、ネタツイやリプライの方にこそ、重要な問いがあることの方が多い。

 エロ画像をよく投稿する人と毎日政治ツイートをする人は一見違うように見えて、僕は殆ど同じだと思っている。

 対女性に対して思っている感情をエロ画像で表現するのか、それとも抑圧的に論理で説明するのか、性格の問題に過ぎなくて、賢いかどうかの問いはここでは等価だと思う。

 申し訳ないが、本当に頭が良くなりたいなら、性別がどうこうとか、コロナ禍とか、そんな大衆の問題に付き合う必要はない。

 ただ物理学や哲学、本を読むをやりすぎると今度は今度で、今の世の中で本当は何か起きているのか?という距離感を忘れて頭が良すぎるが故に頭が悪いのだという難しい問いに直結する。

 このバランス感覚が難しくて、ぶっちゃけちゃんと出来ている人は殆どいなくて、むしろ現実はそんなもんなので、失敗を前提の上でどう失敗を補っていけるのか?の方が重要な気がしている。

 Twitterに流れる殆どはマジで役に立たないので、申し訳ないが、どんなに凄かろうと、情報量がYouTubeとブログの劣化コピーのため、更に明日になったら川から流されちゃうため、

 殆ど起きたことを覚えていないし、記憶を取り戻すのなら、まだユーチューブかブログの方がいいだろう。

 ただTwitterは距離感を取り戻す練習を意識すればこんなに使えるいいメディアはない。

 Twitterは流れる情報自体には意味は殆どない。

 エロ画像もわざわざTwitterで見ずに、自分でググればいいだろう。

 では、何がTwitterで面白いかといえば、承認はまず前提だろうが、僕は心底どうでもいいので、

 承認を求める人々やどういった思惑で人々が動いているのか動かされているのかを

 定例観察するには、十分使えるのだ。

 暗黒啓蒙もアンフェミもそれだけでは何も一生変わらない事は自明だが、こういった存在がある事を直視しないのはまた問題が違う。

 いいねを集めようと思ったら、猫と飯の写真、心理学を毎日投稿しろ。

 コロナ自粛の問題は、皆が自分の見たいものしか見なくなったことが問題、YouTubeのであって、暗黒啓蒙やアンフェミ、コロナ自粛反対は不愉快な存在だし、第一、悪ぶっているように見えて社会に期待をまだしているところが根幹からして法の奴隷だからダメな気、共依存な気もするが、問題提起を素直に感情的にぶつけるところは高く評価できるだろう。毒にも薬にもならないでコロナ禍を漠然と生きて、「自分だけの人生が辛いんですけど、どうすればいいですか…?」のような訳のわからぬ幸福さ加減で生きているぐらいのだったら、今世の中でどれだけマクロにたくさんの人々が苦しんでいるのかをちゃんと見た方が自分の鬱さ加減が本当の鬱病患者や社会的弱者よりも甘えたものだったかということが可視化されていく。

 俺がマッチョだとよく言われるがとんでもない。

 俺はあくまで本当の鬱病患者や障害者と、Twitterにたくさんいる人間は別物だと言いたいだけなのだ。

 また、根源レベルでは賛同なぞ不可能だと思っている

 本当に鬱病患者や障害者を皆がTwitter通りに好きで助けたいのなら、もう社会は良くなっている。そうじゃなくて毎年同じ内容の使えないライフハックが流れるのは、それだけTwitterは何を助けてくれないし言葉通りに誰も動かない場所なのだということを証明してしまっている

 Twitterはあくまで賛同よりも、「あ〜こういった人間がいるんだな…」と絡みに行く場所、観察する場所が限界であって、情報発信はするべきだが、正しさよりも、承認を求める人々がどういった生活をしているのかを見た上で、どう動画やブログ、日常で言葉を紡ぐかをメタ的に使っていく場所だとかなり割り切っている。

 TwitterやYouTube上の「不幸なんですけど、どうすればいいですか…」は9割自己責任である。

 自分の見たいものばかり見ているから世界がオワコンになったように見えるだけで、暗黒啓蒙の言っているように世界が暗黒になっているのは嘘だ。単なる自分のイデオロギーや仲間たちだけでつるむからこそ貧乏でもティクトックをやったり凡人でもエロ画像を投稿したりして毎日を幸せに生きている人はたくさんいる。下手に高学歴で仲間のいない人々が勝手に問題を作っているという点で、暗黒啓蒙もTwitterフェミも同じ病を抱えているのである。

 また、Dr.環が言う通り、有名な話だが、双極性障害の方々にはよく自分よりも精神分析に詳しい方々は多いけど、実際に治るかは別だということを彼は言っていて、理屈に詳しいからこそ、実際に治るかはまた別の話なのである。Twitterのライフハックや政治論壇がヌルいのは、本当の弱者は、ただ優しい言葉をかけたり答えを教えれば万事OKと思い込んでいる、もしくは、その程度で物事を処理することで自分の罪悪感から目を背けたいだけなのだ。

 むしろ、本当に頭の良い人々こそネタツイをする事はよくあるし本当に頭の良い人々こそエロ画像をよく投稿する事はよくあるし、そもそもTwitterもブログもやらないのだということが見えないと暗黒啓蒙の悪い面が発生しちゃう。正直に言うと俺よりも頭の良い友達はたくさんいるが、半数以上はTwitterをやらないで、自己最適化の方へ修練している。

 本をたくさん読み込むことが幸福というわけでないし、Twitterにある言葉の殆どがアジテーションばかりだ。

 むしろあえてアジテーションに乗っかってどう彼ら彼女らの言動レベルから答えではなくて、問題提起ってヤツを見せられるのかそっちの方が重要だと思ってやっている。

 端的に言えば、バタイユとヘーゲルの問題、バタイユこそ批判するヘーゲルに依存しているのであって、ヘーゲルを表面的に批判しても、社会インフラの中でどうするのか?という点でヘーゲルの存在自体を軽視しているので、そもそもマクロ自粛反対派こそミクロだったし一見ミクロに見えるマクロ自粛しよう派、国家のことを軽視する方こそがむしろ国民の不愉快な民意だったのである。

 難しい話なので、さらにザックリとすると、社会を変えようと思うのなら、Twitterの言葉だけでは何も変わらないのだ。

 これまで僕個人は、個人の問題を抱えている人へ個人をどう変えるか?を話してきた。

 が、Twitterの大半は、個人の問題を抱えている人が社会を使って個人をどう変えるか?とシステムへ依存している。

 これは無理だ。

 個人の問題は個人の問題であって、社会の問題は社会の問題であるからだ。

 景気が良い時は社会が個人を助けてくれることはあっても、景気が悪くなれば社会が個人を助けてくれることはない。そして景気の良し悪しに依存するのはFAXチャートと同じ泡銭的発想なので、土台に無理があるだろう。景気が良い方が良いのは自明だが、コロナ禍の状況はマクロ政治経済論壇こそがミクロだったという身を斬ったギャグなので、マクロ派は今回マクロの総意と矛盾していたという良くも悪くもな話だった。

 じゃあここで彼らを冷笑していたら、いいのか?と言ったら、そんな訳が無い。

 問題を解決しようと

答えを知ろうと

する奴らの方も終わっている。

 ぶっちゃけ問題の大半も解決しないし、

答えも殆どありません。

 むしろ非健常者の方々たちの方がこの事にシビアに直面しているので、個人的な問題が一向に回復に報われないからこそ、絶望的だからこそ、希望的にシャープな作品をよく提出することがあるのは言うまでもないだろう。

 俺の場合は、単にI Qと運、性格が高かっただけで、俺の多少なりともな進学校の生徒は意外と不幸な人生を辿った人が多かった。

 が、

一度人生が不幸だったからと言って、

ずっと人生が不幸とは限らない。

 むしろ不幸だった事から立ち直った人々をよく見てきたが、その後の方が希望に向かったリアリティのある人生を辿っている人々が多かった気がしていて、むしろずっと健常者止まりである人がある日些細な事で落ち込んで塞ぎ込んで倒れてしまう事は幾度も見てきたし、自分も週7回働いた時は本当にその瞬間だけは死ぬんじゃあないかと思ったのだ。

  才能ある人は、傷ついても、絶望を見ながらも希望を見捨てない人じゃないと成り立たない。

 となると、才能なんて無くてもいいのだと思うこともある。

  だって、

気楽でいいだろ…?