【批評真論】過剰ネタツイ神経症。社会学的メタゲームの先へ。哲学は最後のところ「ベタ」を貫くしかないわけ。

 雑音を

まず断ち切るー。

 YouTuberかつツイッタラーですが、予備校講師のツイ廃人が受験生にこんなところにいつも入り浸るな!と言うのと近い意味で、ネタとベタをしっかりと分けれる峻別が出来るまでは、SNSに過剰にハマるのは本当に良くないし、

 SNS自体がそもそも主観スピードのオワコンなので、

ここである意味で話しても限界があるのだ

 と自虐ですがしっかりと登録者の皆さんは理解することが大事です。冷笑もマジレスもどっちも含めて、ね。

 真剣に考えたいひとへのアドバイスですよね? 

それならば、

学問はまず

ものごとを

「真剣に

受け止める」ことから始まるのだ、

と言いたいです。

 「受け流す」ことからは始まらない。

 ボクが自虐的だけど、YouTuberでありながらYouTuberを批判した事と同じ意味で、インフルエンサーがどうとかネタツイがあるとかどうとかにまず正しいかどうかに惑わされずに、一度は真剣に1つを信じて戦ってみることが大切です。その結果がたとえプロから見て稚拙でも恥ずかしがる必要はない。まず頭に汗を自分なりにかいたどうかが重要なんです。

 最近は、TwitterとかTikTokとかがあるので、普段からいろんな意見を浴びて、若いうちから他人の意見を受け流す技、ネタツイが過剰すぎる神経症的にすぎるぐらい上達しているし、またそういうのが、

頭の悪いふりを

することが賢い

と思われている。

 社会学やSNSは、そういうときとても便利なツールとして使われている。つまり、「俺はお前の意見とは違うよ」と言っても、「ああそれはそういうコミュニケーションなんだね」と、するっと受け流してしまう。でもそういうことを言っていると大成しないので、物事には真剣に取り組むべきです
 つまり、本を読むときには、若いうちには、「ここには真理が書いてある」と思って読まなければだめだということです。「こういうような時代もあったんだな」とか、「こういうことでコミュニケーションをとっている学者もいたんだな」とか、そういうメタな読み方をしていてはダメです。そこには真理が書いてあると思って読まないといけない。そういう社会学的な読み方というか、メタレベルな読み方は、大学卒業後にやってやればいい。批評系YouTuberというメタのメタメタを自分というキャラで作っていて言うのもなんですが、「社会学的な知」、SNS的な知が蔓延することの危険性はその辺にある。つまり受け流す技と言うのが、ちょっと拡がりすぎている。そもそも馬鹿は馬鹿だし、頭の悪いふりをしている時点で、そしてSNSにはそもそも徹底的に答えがないのだ、

まずは自分で

考えろよ!

 こういった素朴さが答え以上に本当に大事だと思うんです。
  何にせよ、「本を読むときぐらいは真面目に読む」ということです。まあ今の世の中だと、そういうのが非常に難しいというのも分かります。例えば、最初からAMAZONのブックレビューがあって、良いとか悪いとか言っている奴がいっぱいいて、Twitterでもいろんな書評がいっぱいあって、じゃあ俺の立ち位置ってどこかなって探りながら、新刊を読むという感じになってしまっている。なかなか、「これは正しい本なんだ」と信じては本を読めなくなっている。でもそれは非常に不幸なことなのです。

 思うにSNSのネタツイまみれは過剰に幸福ぶるが故に不幸なんですよね。ネタツイだけで本当にいいのならベタすぎるマクロ政治経済も哲学も文学も批評だって親友だって家族だって成立し得ない。ネタツイだけで本当にいいのならそもそもネタツイしまくる意味すらない。むしろそのネタツイは希望かもしれないというアイロニーが直感的に読み取れないうちは、SNSはインフルエンサーやアジテーターに食い物にされちゃうので気をつけた方がいい。

 完全な答えなんて無いのが、社会です。

 なのに

 ずっとずっと答えを

ずっとずっと答えを

探しちゃっている。

 内田樹にも問題がありますが、先生が偉いに書いてある通り、先生は能力があるから偉いんじゃなくて、生徒をまず信じる先生とその先生を信じてくれる生徒がいたから師弟という言語ゲームは成立する。

 つまり、能力的に偉い人なんていないけど、

 まずお互いが

無根拠に信じる「勇気」が無ければ、

奇跡は成立しないということなのです。

 論理や答えよりも遥かにこっちの方が実は難しい。もちろんヴィトゲンシュタインやオースティンの言う通り、答えや理屈の徹底からもこの結論になるみたいですが。例えば、学校の友達なんて振り返るとよく分からない奴らの集まりで、仲良くなる前には全く違う人間たちでしょう。なのに、あたかも昔から友達であったように感じてしまう。恋愛もそうで、そもそも異性と異性が考えが違うのは当たり前。ただだからこそ超えてみるんだ!というパラドクスがあって初めて恋愛や家族は成立して、

こうして世界は

ループしていくんだねぇ〜。

 要は、読書もだし師弟もだし、まずはやってみるのだ、という意志からじゃないと始まらない。

 逆に言えば、能力や環境のせいにはできず、ある種の無根拠さにコミットできるかどうかの後から理屈や答えとかは役に立ってくるわけで、先に答えや理屈を探そうにもそれは全部ないよってことなんです。

 というわけで、まずはやってみる

 その上でSNSでどうするか?インフルエンサーの言うことはどうなのか?っていうことになる。

 最初に何かを信じる勇気、根拠が無ければ、何かを相対化しまくっても無駄だということです。

 だから、SNSがどうたらとか世論がどうたらとかインフルエンサーがどうたらとか

まずは個人で立ってから、社会へつながるべきで、

個人が自立した上で、社会(勝ち負け)です。

インフルエンサーより貴方が上なのは冷笑故じゃなくて、まず貴方は貴方だからなんです。だけど、貴方があった上で貴方を犠牲にしなければならなくて、この順序の流れの自覚が一番難しく一番大事です。

その順序を間違えてはいけない。最初から適応過剰になることが社会人というわけではない。

まずは批評を信じてみる。

だけど!その上で疑ってみる。

ロジックは大事だけど、その展開式が一番重要であり、勝ち負けはまず二の次なのです。