図書館で「ねんね」しなさい。 24時間睡眠学習法(思想としての睡眠)。

 図書館ほど居心地のいい場所はない。

 そう思うだろう?

 空間デザインのアフォーダンスなる当たり前の問題であるが、図書館は頭なる筋トレのジムなんである。本!本!本!知識の森っていうのはマジでそうで、無限に終わることのないボルヘス『バベルの図書館』を見た模造クリスタルとカフカの城から無限なる脳の記憶収納を連想された村上春樹と脳の中の小人を誤認したデカルト的二元論に最後まで固執したワイルダー・ペンフィールド博士、心理学の祖なるウィリアム・ジェイムズが意識の流れを発見し、そこから夏目漱石やアメリカ的知的風土と重なりプラグマティズムが生まれて、そこの反転として東洋思想、京都学派が生まれたことは当然のことで…、

 ああ!やめよう!

 24時間フル回転で

脳と身体を使わないと

いけない!

 「頑張る」のはやめよう。ただ『図書館』、図や書のある館と書いて、図書館と言うこの無限迷路に及ぶ知的空間、拡張現実は当に人類全体の過去から未来に及ぶ脳内をつなげたイメージの視覚化と言っても、言い過ぎではないだろう。

 だから、図書館では無理すんな。

 むしろ、

 図書館では

 「ねんね」

しなさい。

 グーグーと寝なさい。それだけでも莫大な効果を図書館ではもたらすだろう。

 今でも思い出すのは、カントやスェーデンボリ、吉本隆明、ルーマンを読んだ時には、気絶して意識がなくなっていた。つまり、机へ爆睡である。文字が難しくて、寝ていたのだ。が、むにゃむにゃと「それ」が気持ちいい。

 図書館で「ねんね」、睡眠をするっていうのは、普通とは意味合いが違う。まず難しすぎる本を読んで、その本ごときよりも難しい「図書館そのもの」を無意識化で読もうとする行為、それが「睡眠学習」である。

 ふざけては、いない。

 図書館で寝るということは、圧倒的膨大データの洪水の上で寝るというわけだから、他で寝るとは意味が違う。だから、図書館で眠るだけで、頭の中ではどうやって膨大なデータ量、空間記憶処理を処理しようか?と物凄く頑張っているのである。図書館が眠るのに最適なのは、睡眠学習という暗記、整理をエンカレッジに高速回転で求められているからだ。なので、中途半端にレンタルしてそそくさと逃走する本読みキャラよりも、足腰をじっくりとつけて朝から深夜まで図書館で1日を生活する睡眠キャラの方がしっかりと本を読んでいる、睡眠という闘争者とも言える。

 たかだか自分の趣味の本1冊を読む田吾作なのか

 それとも、

 図書館にある100000億冊に及ぶであろう

 過去から未来、

ありとあらゆる全部を

読もうとしているのか?

 当然、後者に傾く場合、図書館上級者こそ、図書館で「ねんね」を意識した上で、本を一日良くて20冊ほど読み込めることになるのだ。

 大体、ここまで来ると理解しているかどうか、そんな浅はかな発想すらなくなる。

 「論破」というのが文系の好きな算数なのに、いかにも凄そうな数学に見えちゃうのも、単に彼ら彼女らが無知だからである。

 図書館に来て、無力感を感じることの方が重要だ。

 いちいち英語やフランス語、数学、古文、世界史を勉強している暇すらも無くなる。膨大な古典を読もうと思ったら、その都度あり合わせの辞書を片手に読み漁る、推論するしかなくなるし(パースによるプラグマティズムの格率)、理解するのに、5年はかかるだろうな…など色々と無知の未知、

分からないことを分からないと判断することが分かるようになるのだ。

っていうわけで、寝た方がいい。

というか、本のデザインや年代、置かれている場所からも読書は始まっている。しかも膨大な全部を読もうと思ったら、長期戦であるし、眠るのも選択肢にあって当然だ。むしろ24時間、生きてから死ぬまで24時間トイレでもディナーでもどこでも本は空間把握でも読まないとならない(思想としてのグルメ)。だから、睡眠中、無意識下、フロイト曰く無意識の領域で頭と肉体をどう動かすか?が重要である。

なお誤読をよくする人々は文字だけを追っていて、脳内における無意識的な読解が浅すぎる。黙読をやめて音読(遊戯としての受験勉強。英文を音読するなら、哲学書はなおさらだろう?)、また、浅はかなSNSを徹底的に遮断し、誰とも話さない時間を意識して作ることが重要だ。(ひろゆきさんやその群れが冷笑しながらも純愛的な友情、ベタベタを求めるパラドクスも合理的な言語内のみで思考し、無意識の感情を押し殺したフリをしつつ、だだ漏れということなのである。)。

 図書館こそ

 寝ましょう。