愚昧な宮台真司の最大の敵たる古田更一の従米徹底論。複垢と無関心の何が問題か?→あれらへの【プラグマティズム】 いいねと炎上、登録者数の大きな誤解と処方箋

文字数: 4159

 僕は今までフィールドワークとして主にたくさんの10 ~20代のSNSユーザーたちと長すぎる討論を重ねてきました。

 その中でもかなり問題だと思ったの複数例が複垢問題です。

 匿名であることはズルくて、非匿名であることはズルくないという言説がゼロ年代にありましたが、それよりも複垢の方がよほど深刻だと思います。

 言っとくが、これは個別だけの例ではなく、コメントを書くユーザーのザッと1%を占める、いやもっと大胆に言えば、ずっと依存し、ずっと寄生し、ずっと荒らす層というのは、ほぼこの方々と言っても言い過ぎではないでしょう。炎上の大半にいちいち皆に嫌われたと怯えるな偽善者どもと再三言うのは、一人レベルの規模の人間が半場意図的に複数人を演じて、炎上ややっかみに加担しているという世間、皆さんの誤読がここにあるからです。

 さて、複垢の何が問題か。

 彼ら彼女らは初めから自分が勝つことが前提で依存してくるからです。

 病気だと言ってもいい。そもそも議論に勝ち負けもないのに、彼ら彼女らは、「自分が上か相手が下か」という自明性、そういった言説に依存している。自由、勝利を手放すことができないからこそ、不自由、敗北という、程よさが分かっていません。

 まあこういった層は、語り口を見ても20代後半~30代後半のネオリベの残党、ロスジュネということが分かる。ひろゆきの劣化コピーで「勝てばなんでもいいのだ」という言説に依存している、要するに学歴がないと自分を保てないヘタレということですが、とにかく彼らの言葉自体には意味なぞなく、「彼ら彼女らには勝つこと自体で苦しむのだ」というノイズさに気づかせる重要性がある。

 独りで勝ってばかりいるから、孤立しているし、独りで勝ってばかりいるから、愛に飢えすぎて、距離感のあまりにズレた求愛行動という錯乱へ陥ってしまう。

 ひろゆきが現在、いい人おじさんのようになっているのも、極端なる冷笑と純愛はセットであることなのです。

 まあたかだか論破なぞ文系数学、初頭論理学レベルであり、この程度で理論だとか言われても困る話(理三レベルとそれ超えのアカデミック、数学オリンピストや大学数学研究者たちの戦友たちに会わせてやりたい)。

 ただ、彼らの頃は、戦後民主主義者、生徒会教科書学校教師便所野郎どもへのルサンチマン、まあ反発ということがあった。これは今回の趣旨ではないので、説明はあえて省きましょう。

 さて、ここで現れるのが、今の10代〜20代前半、SNSネイティブ世代です。

 冷笑系前期SNS世代、ニコニコ動画世代は、左翼への反発というロールから、自分だけが勝つことが真の友情なのだというオブセッション、抑圧がそこにあった。が、それはある意味で言えば、彼らよりも愚鈍な教科書的な偽善者たちがいたからだと言える。

 今の偽善的後期SNS世代、YouTuber世代は、左翼も皆がSNSへ参入した結果、SNSを社会的なモノだと認識し、だからこそ、表面的な規範にはしっかりと従うのだけど、一方で、左翼の問題点、教科書暗記、経験知の浅さから非実践的な物言いで社会を判断する、ひ弱なヘタレ的空気を邁進させている。本当のやりがいや本当の愛情はどこにあるの?教科書に書かれているはずなのに…。書かれているわけないでしょう笑。そんな病理を感じさせる。

 ここで、冷笑系前期SNS世代は過剰に複垢や悪いね連打をして、積極的に勝ちたがりに行き、偽善系後期SNS世代は自殺者が出ても、責任や愛情のコストを払いたいくないから、無関心を装う消極的な歴史修正主義を行うようになる。

 どちらも不安ベース、屁理屈に邁進する不安神経症の現れで、180度違う奴らに見えますが、どちらも小林秀雄の言う、様々なる意匠、柄谷行人の言う文物、社会の自明性を担保したい宗教なき後の宗教だと言っても言い過ぎではないでしょう。

 前者も後者も言葉それ自体の意味に耳を聴かせる必要はなく、背後にある彼ら彼女らの真なる目的、本人たちすら気づかない目的を事前予測し、その上で、複雑にアドリブ的に語っていくしかない。

 リバタリアン的な物言い、個人主義的な振る舞いの失効は、急激な国家主義を皮肉にも左翼によって10代によって起こされる。

 大事なことは、プラグマティズムでしょう。

 イデア、観念のイメージの世界にばかり気を取られて、SNSばかりやって国家主義にばかり囚われている。もしくはリアルワールドだけではなく、SNSですら勝ちたがり、勝つことに強迫観念的になりすぎて、結果、デミリットばかりを享受している。

 ここで補助線を引かせてください。

 LAINというSNSを予言したアニメでは、SNSをワイヤードと言い、リアルワールドとは違う世界だよねというプラグマティズムの前提線がそこにあった。むしろ日常をしっかりと理解する視座があるからこそ、非日常、イデアな世界観を作者の小中千昭は描ききった(そもそもアメリカのカリフォルニアン・イデオロギーの輸入こそあのアニメだった。プラグマティズムのネガを徹底したからこそである。まあこの話は分かる人にだけ補助して提示のみします)。

 僕は何もイデア、理想や宗教を存在自体までも否定しているわけではない。

 むしろ、峻別をしっかりと付けずに、グニャラグニャラと混ぜて考えているからこそ、ポスト・トゥールス、言葉自体に意味がなく、現実と虚構の境が受け身で分からず、ノイズにまみれ切ったこの世界の洪水に溺れてちまっている。

 そのために、プラグマティズムの作法という当たり前の道具が必要になってくる。

 アメリカがなぜ西洋で一時期最強の経済大国に成り上がれたのか?

 それは、西洋近代の理屈、

そんなものが人生かよ!?

とちゃんと建前だと身に染みて分かっていたからです。

 当たり前の話。元々、近代合理主義をほざくイギリスで差別されていた人々が作った国がアメリカですからね。元々が合理をヘタレの屁理屈と分かっていた。

 ここで問題なのは、日本は近代化の本義を分からず、強いアメリカ、同じ等身大の後期枢密国ドイツから、西洋近代を学んだことが教育の失敗だった。

 逆です。むしろアメリカは弱かったからこそ、強くなったのだという西洋近代史の歴史教養こそが重要です。何もこれはアメリカを愚弄する話でも、アメリカにとって都合の悪い話ではない。むしろ対米従属をするのなら、ちゃんとアメリカにリスペクトされるのなら、これぐらいは知っていて当然の教養。むしろアメリカと協調外交をしようと思ったら、アメリカを守ろうと思ったら、アメリカの勝ちと負けを超えた眩暈のするタフさに徹底的に感服するべきでしょう。吉本隆明が言っていた。アメリカはチューインガムを食っていて、馬鹿そうだから勝てると日本人は思っていたと。逆です!むしろそれくらい余裕さがあるからこそ、負けそうな態度を取れるのだと言えるのだ。

 亜細亜主義を一時期に提唱した宮台真司をプラグマティストの僕が尊敬するのは自明の話。原理上、宮台真司の圧倒的敵であるアメリカのケツ舐め野郎を宮台真司が持ち上げたのです。そこに勝ち負けは?

 あるわけねーだろ!

 だからこそ、勝てるんだよ。

 そんなことでパーチク言っていないからこそ、宮台真司と僕は利害やイデオロギーを超えて共闘があえてできる。

 もうこれで分かったでしょう。

 対米従属か日本独立かは、ある意味では表層的な話。

 そんな表面的な話はどうでもいい。

 そうではなく、敗北こそが勝利をもたらすし、勝利こそが敗北をもたらす、この眩暈のする強さこそがアメリカの懐の良さですし、アメリカに勝とうとする物言いこそ、むしろアメリカのアイロニーが分かっていない。アメリカが世界の政府だとか偽善を散らすのも、全く「できるのだ!」だって「俺らは失敗しても、その失敗を受け入れた上でも成功するのだ!」という勝敗を超えた価値観が底にあるからです。日本のひな壇的な二元論はお話にならない。いわゆるSNSの露悪と偽善と内実は一緒。

 具体的な話にそろそろ回収しましょう。

 まあ日本の近代化教育はマクロには失敗していますので、1、身体性を伴った認知トレーニング(現象学→オートポエシース) 2、馬鹿を馬鹿だと徹底的に見た上で、遊んじゃうメタ・トレーニング(ハイカルチャー&サブカルチャー全部やれよ問題。シラけつつノり、ノりつつシラける) 3、個別指導という実務に富んだトレーニング(プラグマティックな実践なる感情教育)

 この3つがとりあえずの処方箋として挙げられるでしょう。学問的な判断で言われていることを「あえて」ジャガイモやキムチ、ニューアカ、不謹慎系YouTuberにするという複雑性がここで重要で、近代合理主義の二元論で曇った目を光らせるには、哲学タームを笑うことで哲学タームの真の愉しさに気づかせる勝ち負けを超えた奥義が重要になってくる。

 1は思想としてのグルメで、2は遊戯としての受験勉強、3は添削批評、採点批評、これらのおふざけモードを体感しているうちに自然と近代化のイデアを取り外す目から鱗体験が備わっている。むしろ馬鹿馬鹿しいような雰囲気が大切で、そこで舐めてもらっているうちにひっくり返す合気道戦術と僕は言っています。相手を見下して説得しても埒が明かない。むしろYouTuberとして舐められた態度から、自然とひっくり返す目から鱗が大切です。

 プラグマティズムは勝ち負けを超越した思想ですから、浅ましい二元論などどうでもいい話。まあ1,2,3の詳しい役割は今回は省きますが、今のSNSに蔓延する合理廚どもへ必要なのは「殴って構ってちゃん」&「偽善的無関心」の表層的プロレスを超えた、つまり、「勝ち負けを超えた何か」でしょう。