コロナ自粛と自滅する【ロボットの子供たち】。もしお母さんの顔がロボットだったら、キミはどうするの?「純粋東浩紀批判」。落合陽一のキモさから逃げるな!

 頓馬は弾きます。閲覧注意。エリートだけへ楽屋裏を話すので、いつも以上に一ミリも癒されないので、読む価値はありません。というよりも、価値があるかないのかという自明性で慌てる方々は既に中身が分からない。安心してください。言葉を追うだけでは、文脈や文体が分かる「文系」じゃなければ、この文体の外にある眩暈が分かるはずはないのです。

 この文章を大半の方々は読む価値はない。勝手にまったりとプラグマティズムとジャガイモで寛いでいてください。もしくは、哲学書を読んでここではないどこかを空想科学主義者、サンシモン(まあTwitterのバカ哲学キャラたちw)のように空想するのも良し。とにかくまったりとしていてください。

 では、応答を続けます。

 せいぜいMAXで宮台真司先生、MINIでまつたけ大王さんレベルの言説を展開します。

 今起きている後期近代性は、東浩紀の提唱した環境管理型権力、それらの実務的弊害の上でどうコミットしていくか?という話へ展開してきたわけで、東浩紀さんや宇野常寛さんといった主知主義者たち(あくまで当時の範囲に限定するロールプレイ)は、あくまで理論的だから間違えても仕方ないっすよねという現場性を外した未来予測の論理という逃げしかしていなかった。要するに、SNSを語るが、SNS自体へコミットするなどというフィールドワークは遠慮願いたいということです。

 ただ踊るべきが如きにゼロ年代の頃、というより倫理研あたりの頃の東浩紀さんの予想は当たり、今は後期環境管理型権力、環境管理型権力が成熟した社会の実態と問題という方向へ問題がスライドしてきている。今は正にフィールドワークの時代と言える。それこそ批評系YouTuberの炎上芸が分かりやすい例でしょう。

 さて、議題に戻りましょう。

 今起きている重要な問題は、ロボットの子供たち、ではないか。

 もしお母さんがロボットだとしたら、キミはどうするの?ではないだろうか。

 質の低い三文SF小説だと思わないでください。今、良くも悪くもPSYCHO-PASSというディストピアアニメや暗黒啓蒙の頓馬たちがすばらしい新世界などをオススメしていて、これらの現象は、もし『お母さんがロボットだとしたら、君はどうするの?問題』だと理解できるでしょう(これを皮肉にも未来のSFなど理屈屋ごときがほざくな!所詮は妖怪の類にすぎないのだと冷笑したのが、むしろ前期近代化の過去という皮肉、あえて大正というメタファーを使った鬼滅の刃ですが、まあこの話は補足です)。

 さて、具体的な話へ展開しましょう。

 ロボットの子供たち、もしお母さんの顔がロボットだとしたら、キミはどうするの?とはどういうことか?

 簡単です。

コロナ自粛の問題は、社会規範として、テクノロジー万能主義が返って、国家の代わりとなる、大きな物語、巨大な宗教的産物の祈りとして「消費」されているということなのです。

 「ロールプレイとして」(SNSの馬鹿馬鹿しい状況では、言説なぞこの程度でいいw)、

ボクが

「あ、東浩紀先生は

古田更一に破れたり!」

と申すのは、

この事です。

 先生はこう昔申していた。

 ポストモダンで大きな物語は潰えた。誰によって?オタクとテクノロジーによって。

 むしろ逆です笑。

 そのアンタの擁護したオタクやテクノロジーこそが、今は右翼、国粋主義の純粋なる源流として消費されているのだ、ということなのです。

 もちろん今の東浩紀先生はゲンロン0を見る限り、カリフォルニアン・イデオロギーに半分のところ、否定的でありますし、むしろ彼はシステムの非合理性の断念、合理の徹底こそが1回限りの生に逆説に気づくのだと初めから「あえて」システムの非合理性へ賭けていた。これはゲーム的リアリズムの誕生と彼の小説群を読めば分かります。なぜボクが先程からSFアニメやSF小説の話をして、ゲーム的リアリズムの誕生などといった空想じみた虚構を話したのか?

 それは、今の宗教性、人文的な問題は、SF、純粋なるテクノロジー礼賛に集約できるからなのです。

 ここでクリティカルに重要なのが、近代化とテクノロジーは蜜の関係性で担保されていた。高速な近代化と工場、核、原子力の発明は、近代化による統合でないと成立し得ない。

 そこで、今、敗戦後、国家は信用でき得ない。が、テクノロジーだけは信用したい!という空気が湯水のようにあふれかえっている。

 み、「宮台真司」先生。

 貴方も「間違えていた」。

 「合理的な日常でいいじゃん」と思う「内発系」と「いや非合理な非日常こそを!」と思う「超越系」という括りはむしろテクノロジーが進みすぎて、魔法と科学の境が分からなくなったオーヴァーラップじみた現代では、もうどっちが超越系なのか内発系なのか分からなくなってきている。

 要するに、

 日常でいいじゃん!と騒ぐ内発系の彼らこそが、日夜FAXトレーダーのように感染者数を毎日必死で見て、ヒィーヒィーと言い、急いでマスク買い占めに走り、営業時間8時までだろ!とありの大群のように忙しなく

「働かないこと」へ「働き」、

SNSのいいね集めというゲームへ必死で邁進し、「どうせおいらは…」というネタ、三流で馬鹿である自分をあえて見せる内輪芸のYouTuber、大学とテレビの3軍なのに、毎日投稿といいね集めをし、道化のポジションへサラリーマンたちが憧れて、そして!そこで爆発をした彼ら彼女らが訳のわからぬ不倫や自殺をするという、三島由紀夫はサラリーマンなんだよ!という訳の分からぬことが起きている。

 もちろん先生はこう言うでしょう。元々、世界はデタラメだったと。

 ただ、アイロニーはアイロニーであって、内発系は内発系であることをやめてはいない。むしろ自分たちが徹底的に愚かだとは一ミリも気付かない。いや、元々の始まりが規範ベース、盲信的な理論から出発しているため、コロナ自粛も本気で統計データの問題だと思い込んでいるし、SNSの自殺もお涙頂戴の問題だと炎上をしそうな不倫をした人間などを処刑台、サクリファイスにすれば、これでいいのだ!という魔女狩りが「理論的に?」多発している。

 もちろん日本とアメリカの宗教なき宗教、特に日本の場合は、紋切り型の形式美の洗練化が進みすぎて、しかもアメリカの屈託のなさがトランプ登場などにより、もう戦後の対米関係がある意味ではもう限界がきたのだと言い換えていいかもしれません。

 かつてボクたちのお母さんは、大日本帝国だった

 かつてボクたちのお母さんは、マッカサーだった

 ときて、

 ボ、ボクたちのお母さんは、ロボットに決まっている!というあらすじへ全ては収斂してきた。結晶化されたシュビラ・システムの実現。虚淵玄先生のPSYCHO-PASSがその実、日本の右翼性の予言を描いていたのは言うまでもありません。

 良くも悪くも純粋に結晶化されたプラトニズム、西洋の結晶、まあロルフさん、世界史選考系に分かりやすく言えば、偶像崇拝禁止のインド的宗教、太古の宗教が復活したと言っていいでしょう。

 そして、

 魔法を信じる方々は、もはや、

 ケーキを切れない非行少年たち

 という面白いことがある。

 ようするに、SNSの言葉の大半には真偽の自明性なぞもはや宿っていない。

 形式。

 形式だけがそこにあるだけで、相手がそもそも形式を信仰する以上、というよりも、学歴も哲学系ジャーゴンそうですが、もはや言葉の自動機械からのあえてはもう消えていて、

 宮台先生がお批判するネトウヨネトサヨのジジイババアはまだマシだ、

 もはや今の10、20代は

 「あえて」の政治性すら理解できない

 「本当の」

「言葉の自動機械」へとなってしまった。

 気持ち悪いのは、東浩紀先生と彼へ必死に盲信する10代、20代のボケどもなんですよ。

 どうしてボクがゼロ年代の論者たちと今のTwitterにいるボケ東浩紀信者へ刃を向けたのか?

 それは、

 東浩紀へ群がる彼らは

東浩紀さんの言葉へ

「萌え」として

ただ依存しているだけだからなんですよ。

 つまり、形式の洗練化しかしていない。

 そして、東浩紀さんが「あえて」落合陽一を批判したせいで、あえてが完全に無くなった萌え豚、まあ萌えを嗤う哲学単語萌え豚ども、要は今の若い東浩紀読者は落合陽一(小林秀雄や柄谷行人)は単なるバカなのだという紋切りで処理される。

 いや、それは、困る話で、一見、日本人が見たくない自分たちの原像をそのまま貫いた言説で語りながらも、中身はそうじゃなかった落合陽一や小林秀雄、柄谷行人というラインが全くと言っていいほど、理解されていないというのは非常に大変な問題だ。

 唐突ですが、ボクは

プラグマティストです。

 なぜか?

 それは、戦後日本人の言説程度なぞ、このレベルで十分だからです。ほとんどの西洋哲学の教養なぞ単なる教養であって、低レベルな今の日本の学術では、アメリカの深層だけで十分。が、みくびらないでください。アメリカ哲学と言っても、アメリカの哲学なんですから、アメリカの一流のエリートだけが理解してきた軽薄さの一流ということです。あの夏目漱石ですら、ジェイムズのプラグマティズムを読んでいた。

 ウィリアム・ジェイムズという男の何が凄かったのか?

 それは、彼のお師匠であり、大親友だったプラグマティズムの始まり、

パースの論理学を文系の問題へ

浅くしてしまったことです。

 これは、どっちが本当のプラグマティズムなのかどうか?ではない。明晰だった大天才パースの悲惨すぎる伝記を読んでいれば、分かる話。

 論理はあくまで手段であり、目的は何なのだろうか?!が重要なのです。

 ジェイムズ自身は、医学部、認知心理学の祖として有名で、彼にはパースの論理が分かっていた。が、分かっているからこそ、宗教哲学や強度のある自己啓発に偽装されたプラグマティズムを展開した。ハーバード大学は満員だったと聞きます。

 ジェイムズのお父さんは、新興宗教研究者として有名で、弟も小説家、「意識の流れ」文体かなんかで有名です。

 意識の流れ、仮にここで言うこれをジェイムズは自分の明晰すぎる心理学本で記載しました。

 意識の流れとは何なのか?

 その瞬間、瞬間の思い、理屈こそが、暫時的に真実であって、逆に言えば、普遍的な真理はないし、だからこそ信じようとする意志が大事だと、ジェイムズ兄弟はおしゃっています。

 つまり、普遍的な真実はあくまでその瞬間、瞬間で決めていくしかない。スタティックな後期ヴィトゲンシュタインと異なるのは、アクロバティック、動きのある重なりということです。

 具体的に言えば、今、コロナ自粛で大変なことになった。んで、一流の研究者の答えを聞く。が、それは、あくまで今の一流の研究者が決めた暫時的な答えでしかないのだと。ようするに、理屈なぞくだらない。

 推論こそ真実です。

  ここで、話をまとめましょう。

 1、テクノロジーの極端にイデア化された信仰こそが、現代。今は中世と同じパラダイム。言葉に意味などない。ネトウヨネトサヨの「あえて」の露悪主義な言葉の自動機械から、歴史修正主義の偽善すぎるロボットの子供たち、偽善な言葉の自動機械へテーマはスライドしている。

2、当時の東浩紀さんや宮台真司さんはアメリカの影を前提として理論を展開していた。が、今は抽象化されたイデアのテクノロジー礼賛こそが現代社会の巫女、シュビラこそが神の神託であり、彼らの昔の本の幻影を追う愚鈍な読者や視聴者はもはや、アンタらを食い殺す敵にSNSの最適化システムによって囲まれているぜ、というかゼロ年代の失敗はそれじゃあなかったのかよ?ということ。

3、今こそアメリカの強さを貫徹するまで、浴びてください。彼らが天下をとったのは、論理なぞ信じてなぞいない。「推論」こそ信じているし、論理がいかに失敗だったかの悲劇、パースの悲惨な人生がアメリカ内部における本当の影なのであります。

 普段の読者陣で勘のいい人なら、どうして古田のお師匠が、たかが世間の予備校講師、太庸吉先生であることがこれで分かると思います。英文読解こそが、大学の学問より勝る…。

 そうです。

 文体、感覚こそが、論理を圧倒することを、ボクは徹底した近代合理主義者だった太庸吉先生の授業で知ったからです。太庸吉英文読解→プラグマティズムの流れは普通の流れです。

 太庸吉先生は、社会学の祖、マックスウェバーを経済学徒として学んでいた。そんな彼がどうして受験英文なぞへ落ちていったのか?

逆です。

 戦後の日本の思想憲法なぞ、アメリカという先生から渡された英文を読み解き、読み切ったからこそ、そこから逃走できるのだということは彼は分かっていたからです。

 理論で読めるのか?

 違う。

 言葉なぞ同じ表現の繰り返しに過ぎず、速読こそが精読で、そして、先の先を推論してしまえと。こんな受験勉強、英文なぞ魔法のようなもんだ、英語のエクリチュールの化けの皮を剥がせ!と彼は言葉で言わず、単なる英文読解法の伝授から申していた。

 日本の大学は入るのが難しく、出るのが易しい。

 が、

 アメリカの大学は入るのが易しく、出るのが難しい。

 なぜか?

 簡単です。

 日本は、初めから西洋、アメリカの形式をただ見栄として輸入したに過ぎず、西洋の勉強を初めから愉しめる様にプログラムされていず、

 むしろ日本人が本気で思考しようと思ったら、

まずはくだらないであろう、英文読解や古文、漢文、そんな低レベルの底上げから出発しなければ、本当の日本人の原像とは言えないでしょう。

 痺れてください。

 「戦後の日本」には、

学問なんて、

ない。

 この絶望という名の希望から出発しなければ、何が何やら分からない。

 が、ここで保守から批判されそうなので、補足すると、確かに大学の大衆化以前、第一高校の東大文化や京大文化の頃には、辛うじて文化はあったでしょう。が、帝国大学は、後進枢密国なのでドイツに固執していて、敗戦後は、アメリカへスライドしたため、ここに憧憬を見出すのは、いささかアナクロティックなユートピアでしょう。もちろん彼らが英語を喋れず、構文と文法ばかりなのは、恥があったし、思考があった。そう。英語をどんなに頑張っても、母国の他国に勝てるはずがない。むしろ相手を知るためだけのための、文献調査だけをするための、その為だけに英語という空疎な学問があった。ひろゆきの批判は、はぁ〜?です。古文漢文、しまいには英語すらいらないかもしれない。

 違うんだよ。

 俺たちは英語や古文、漢文を喋るために勉強していたんじゃない。

 論理じゃない。

文体の背後に迫る

 彼らの性質、感情という心臓を鷲掴みにするための感情教育、

 そのために、英語という、西洋思想のキモを掴む必要があった。

 ベタな古文の教授や漢文の教諭が頓馬なのはある種然り。そんなマニアックな田吾作の優等生お坊ちゃんお嬢様はどうでもいい。そして、それを嘲笑う不良たちもどうでもいい。

 amebaは

 お遊戯会かい?

 偽善すぎる優等生も露悪すぎる不良も、所詮は同じ穴のムグナ。

 昔の東大や京大がそんな馬鹿なわけないでしょう。

 まとめます。

 愚鈍な東浩紀へ告ぐ。

 動物化、アメリカ化を徹底するのなら、フランスへの憧憬、ポストモダンなどといった中途半端な言説よりも、アメリカ哲学の徹底をするべきだ。むしろ浅田彰的なユダヤ、浅田彰のように徹底的に逃げた方がマシだ。フランス的亡命陣として。柄谷はまちがえていない。彼が論理的に馬鹿という批判は意味がない。むしろあんなに論理的な彼がどうして狂ったのかという事実、マルクスの亡霊たちをよりもっと直視する方が重要。

 愚鈍な宮台真司へ告ぐ。

 ネトウヨネトサヨという露悪者を露悪的に叩いている場合では、ない。それは偽善的な論理野郎の餌になっている。そして、浅田彰&藤井聡を擁護するボクにも一旦はありますが、論理に憧れる馬鹿が増えている昨今、宮台先生は論理の東浩紀&浅田彰(&落合陽一)未満だと勘違いされている。むしろ経験知の深さで彼らにマウンティングした方がいいでしょう。ドラムを弾くだけで、彼らは泣きますから。

 たくさんの空虚な経歴を湯水のように浴びて浴びて、

寝不足で何かに焦っているオブッセッションの落合陽一を嗤わないでください。彼の弱さと、そして、そこから頑張る炭治郎ごとき強さは、正に12歳の少年、日本の現像です。

 詩でSFCへ入り、中身がないことに開き直りながらも、もっと承認が欲しくて欲しくて仕方なく、お涙頂戴のBL小説を書いて、よりもっとみんなからの承認が欲しい古市憲寿ごときを嗤ってください。キミたちそのものですから笑。

 YouTube動画投稿をしたところ、「三浦瑠麗 かわいい」というタグでウチのチャンネルが検索されていて、見た目は確かに可愛いが、具体的にどんな国際政治なのか不透明な三浦瑠麗ごときを嗤ってください。キミたちそのものですから笑。

 自分自体が矮小だという

絶望から出発せよ!

 そして、たくさんのYouTuberたちが今後溢れる個性経済学、

 差異を解放せよ!

 一発ここでアジテーションを「あえて」キメたくなったぜぇ〜!

 歳納京子は可愛い!

 敗戦を経て、ボクたちの原像は、こんな空虚だと知ってしまう!

 だが、驚いても無駄だ、無駄だ、

 歳納京子のつぶらな瞳の背後にある瓦礫の斬撃は、もはや、

 テクノロジーこそが、論理こそが、宗教団体であり、

 宗教団体こそが、日常だった

 という浅田彰がフランシステンベーコンの様に発狂するリアルがあるでしょう!

  歳納京子は古田の彼女だ!

 そうするために、古田はディズニーランドの底で眠る冷凍されたウォルト・ディズニーへ会ってきた!

 美少女化されたFGO,力と構造、俺様のサーヴァントである眼鏡っ子のAKIRA ASADAは言う。

 「過剰なるエクスタシー。馬鹿もここまで徹底した考えたら、使えることは自明でしょうね…」

「そうだね!論理こそが間違えていた!推論こそが、名探偵の推理だった!」

 そうして、ずっと真夜中でいいのにのニラちゃんが途中で気づいたように、ここはSNSというトゥールマンショーである、ハイパー・リアリティーであることに発狂される。

 だが!発狂して炎上しても亡くなっても無駄だ!

 DNAには、すでに、テクノロジー、論理こそが宗教だと刻まれている。

 こうしてボクたちは、

大学の門の前に立ち、アーティストの卵として出発した若かりし古田更一を生み出す

青年の目線の前に立つ。

 全てが虚構だからと冷笑もしないし、

 全てが現実なのよねと偽善もしない。

 高橋祭が亡くなったのも、こちらとしては規定事実で、暗部はすでに許容されていたのだと直視することが重要だ。 

 ボクは呆れていた!呆れていた!

 高橋祭が亡くなった時も!うごくちゃんが亡くなった時も!

 呆れていた!呆れていた!

 不甲斐ない自分自身じゃないし、それを止めれらない世界自体じゃない。

 彼女たちの原像の裏で笑っていた

歳納京子をボクは

殴れなかったことが…。

 彼女は強い!

 だが、そんなことあってはいけない。

 こうして、無限回廊に及ぶ女系社会の呪いをボクは直視し、

 論理とほざくホモソーシャルのボケどもから逃走し、

 そうえば、バレンタインチョコ17個もらったラノベレベルだった自分の生い立ちを思い出した…。

 極端に曇った空。全く揺れもしない大地。

 だが、限りなく透明に近いブルー。

 草むらへ腰をかけて、血だらけのボクは多摩川の原っぱへ深夜に倒れようとする。ポケットに明言な名言を。手元に隠すのは、きっと後ろから抱きついてくる歳納京子を倒し愛す、そのガラスの破片だ。

 ボクは…ボクは…後ろを振り向かずに、後ろの小さな影へ言いつける。

「この傷は…キミに傷つけられたこの傷は…。太陽のように燃えて燃えて騒がしい。

 なぁ…。

 キミはボクに惚れたかな?」

この質問のフックと同時に、ボクは振り返り、闇の太陽なる巫女へ反撃を試みるー。

か弱い推論から導きかれた限りなき透明に近いブルー。

 が、夜明けの朝は生きている限り、きっと毎日来るだろう。そう×理論=×感覚(○推論)してー。