【天才真論】。下駄裏と楽屋芸はアンタらの子分からネタがバレてんだよ笑。真のインテリキャラの見抜き方。

 単純です。

  天才や人気者その人本人ではなく、むしろ

 視聴者と読者、

彼らを具に観察

することです。

 これぞ!インフルエンサーのパラドクスであります。

 騙す側であるインテリキャラはそちゃあ巧妙であるインフルエンサーだから、理屈をずらずらと並べたり、経歴を大きく見せたりともうこりゃあもう「頭は良いことは良い」。認めます。自発的最適保証、議論で勝つ雰囲気だけは巧いのだと。

 が、綺麗に反比例が如き、騙される側の読者や視聴者はめちゃくちゃに馬鹿の頓馬なのであります!

 これこそが、相手の視座の本質をえぐり見抜いて、正体を晒す、真髄です。

 が、これは何も汚い話ではないし、ただ単に冷笑をしているわけではない。

 自分だけが勝ちたい頓馬と他人のケツに乗って巧い汁をチューチュー吸いたい馬鹿は、所詮は同じ穴のムジナ。で、大将をまず潰す前に、大事なことは、その周りにいる小判鮫どもを具に観察する方が、彼らの資質ってもんが見えてくるわけなのです。

 俺はこれまで1000人以上のSNSアカウントたちと討論をしてきました。

 真髄を語るのは、本人よりも、本人に利用されている、もしくは利用している彼ら彼女らの感情の発露です。そこをしっかりと見ていれば、本人がパーチクとズラズラとレトリックを唸っても、ネタ元はアンタがちゃんと育ってなかった無教養の頓馬たちが自ら教えてくれたぜ!っていう弟子たちの存在そのものが裏切っているということを逆に利用してやれば、ひっくり返すことは出来うる。

 が、これはそもそも本人、カリスマ自体が先に、弟子筋たちを裏切っていた事になる。お互い様です。初めから彼らが信じているのは、その人そのものではなくて、その人が社会的に勝っているかどうかという社会的機能言語だけだからです。要は、他の東大生でも構わないし、他の極左でもいいし、他の若手論客でも、他の美少女漫画家でもいい。機能言語、キャラ、記号でしかお互いを見合っていない。裏切るなよ、ファンども?いや、裏切られて、当然です。初めから、できる範囲の楽屋裏を話さなかったのですから。

 逆に言うと、ここで深いのは、箕輪厚介やキングコング西野のような見るからに胡散臭いところは、ある意味で安全とも言えることが分かってくる。

 露骨に彼らは優しいからです。

 俺たちは胡散臭いぜぇ〜!!!

 と初めからこんなに無防備なカリスマだからこそ、むしろ彼らへ着いてくる信者はカリスマレベルに賢い、頭の良い方々をよく拝見しました。むしろ、オンラインサロンを巧く機能するには、居心地がいいと思うように、圧倒的に視聴者や読者やリスペクトが無ければ、居心地がいいは長続きし得ない。

 そして、居心地がいいは、何も在籍していることだけを意味しません。

 むしろ適度にブロックすることも重要になってきます。

 なんでもかんでも許容するのが、人間の視座じゃあねーんだぜ!と、彼らへ自分なりに他の島を見つめなよ!と教えることも重要。だから、過度な箕輪の党派制はむしろそういったテスト・フェルターになっている。

 当然、箕輪さんの周りにくる方々が素晴らしいと全面的に褒めているわけではない。ただ素直でよろしいと言っている。昔からギルドはあり、宗教はあった。健全に全体性からとりこぼれた、もしくは、何かをしたいやりたいと燃えている燃料を包摂する場所は、いかがしいからこそ、機能するということもある。いかがしい?然り。そのデミリットを当の信者たちが賭けるからこそ、むしろ危なく健全なのです。危ないことをまず言語化することが、危ないこととの健全なつながりです。計算不可能性をなんとか計算すること。プラグマティズム、生きるということの健全なる処世とはこういった類です。

 が、

ワタシたちは安全だった!

 安全だった!安全だった!安全だった!

 うるさいです笑。聞いてねーよ、この優等生スピーカー笑。お得意なる論理の言説(まあ借り物の赤子なるガラガラw)が脳からシューと蒸発し、口からおっせかいなる理屈言語、日常という名の宗教、宗教を嗤う宗教という頓馬野郎がSNSでは騒ぎます。

 オンラインサロンって大丈夫なの?不倫とかして大丈夫なの?炎上していて大丈夫なの?

 可哀想な方々だぁ!

 可哀想なのは、アンタらだよ笑。

  勝ち続けたつもりが、実の所、弱さからの逃避だった…。

  まあ校庭のグランドをただグルグル回って、週7日練習をしながらも、5年間弱小サッカー部だった静くんの話のいたコミニティ話がその最たる例ですが、不信野郎の馬鹿親、馬鹿教員、自分たちの敗北の因果を、子供に押し付けて、どうにか叶えてくれよ…次こそは…というオブセッション、抑圧、ラカン的指摘は全くその通りです。 まあ校庭のグランドをただグルグル回って、週7日練習をしながらも、5年間弱小サッカー部だった静くんの話のいたコミニティ話がその最たる例ですが、不信野郎の馬鹿親、馬鹿教員、自分たちの敗北の因果を、子供に押し付けて、どうにか叶えてくれよ…次こそは…というオブセッション、抑圧、ラカン的指摘は全くその通りです。

 だからこそ、私文の数弱者たちが論破論破と言い張り、東大法学部や理三を受けたことも意識したこともない方々が、学歴とテレビの3軍、SNSでインフルエンサーのためのインフルエンサーという愚昧なる量の宗教を嗤う宗教団体をシビアにも構成しているのが現状でしょう。

 さあ、話は基に戻ってきました。そうです。末期症状の屁理屈病のカリスマはともかく信者たちの狼狽具合から全てはもう分かるぜってことなのです。

 第一、数学は直接は役に立ちませんし、論破はディベート、討論術のテクニックであり、特に後者は俺は十分のところ実践訓練を受けていますが、全く、くだらない数的処理の空暗記に他ならない。このブログに来るであろうエリートなら、絵描きの技術者の俺よりも3日ほどで習得して当然のレベルです。議論で大事なことは、論破術というマニュアルはお互いに脳の片隅に入れていて、当然であり、その型を知った上でどう崩すか?という王道故の絡み手というのが、基本です。ボクシングなどの格闘技をやっていたら、知っていて当然の話。守破離です(格闘技の代わり、あるいは思考訓練のための現代国語でもいい、つまり受験勉強という戦争)。抽象言語はあくまで抽象言語でしかなく、パラドクスまで奴らを追い込んでしまえば、滑稽性が見えてくる。前期ヴィトゲンシュタイン、オースティンの言語と行為、分析哲学の問題ですが、今回は省いておきましょう。

 まとめます。

 大事なことは、理屈なぞ浅ましい愚妹たる頓馬たちが行う詐術にすぎず、不安ベース、ウロウロとしている信者の肩をポンッ!と1回叩いてみればいい。すると、「ひゃ、ひゃい!?」って蜂の子の巣を突いたかのように、裸踊りが展開されるわけです。悲しいのは、東大やテレビ、もう十分とやり尽くされて、まだまだ彼らがマシに見えてしまうこと。彼らに対する僻みから(まあすでにその時点で東大にもテレビにも負けているわけですが…)、三流を見下す三流という構図が展開されているというわけです。

 オンラインサロンを過度に嗤い倒す健全なる三流を嗤う三流たちもそう。

 だが、亀が兎に勝つことあるし、石の上にも三年とも言える。

 もしかすると、三流を嗤う三流は、2.5流ほどはあるかもしれませんが、素直にスクスクと成長しようとする健全なる三流、熱い三流たちは3年後には病を「強く」癒やし、スーパー一流になっていることだってある。

 それすらもまぐれと言うのでしょう。

 が、そのまぐれ、計算不可能性から逃げた方々にはまぐれという眩暈をどう合理的に掴み取るのか?という視座、それこそプラグマティズムが足りていなかったというわけなのです。

 もはやジャガイモをむしゃむしゃと食べていてよし、二郎ラーメンをムームーと食べていてよし。あるいは、「健全に」インフルエンサーとオンラインサロンで承認を集めるのなら、良し。

 計算不可能性だからこそ、

不可能を

可能だと

読み替えること

こそが、

重要なのです。 

【追記】

 ちなみにこの手の手法を使うと、逆に物凄い天才だって見抜けるようになれます。それは彼、彼女らに周りにいる人々が凄い人でその人が無作為にその人へ絡んだり、もしくは居酒屋談義に近い話、等身大の天才たちのトークを深く術者たちからたくさん聞くことができる。しかし、ここで大事なことは、天才だけがいいのか?と言っているのではない。その天才たちを見抜く視座を持つマクロの人間たちの強度こそが、天才の発生基盤でもあるし、大事なことはそんな勝ち負けではないということです。感服してください。そして、絶望から理屈や暗記程度は誦じてください。それだけのそれだけのことです。

【追記】

なお、あまりに規模を大きくしすぎて、愚鈍なファンに溢れた凄い人々もいます。たまに当てはまらないので、ご容赦を。というよりは、最終的には自分で考えましょう。世紀末まで他人の視座か?