落ちこぼれの哲学者キャラたちへ警告する。絶望から出発しろ。哲学が世俗の負け組から逃げるな。

 批評系YouTuberが自虐するのも変な話だけど、大学の図書館で哲学原典で哲学のほぼ全ては事足りると思う(図書館で毎日20冊ほどは無料で読ませていただきましたね。まあ高い学費の元とりたいし、大学は図書館が使えるんだよ)。あとはwikiだけ見てればいい。

 堀江貴文の言う通り、極論、哲学とか古い文献まで当たらないなら、スマホ1個で一生の知恵は事足りる。大事な給料と時間(存在と時間ではない)は漫画や家で飾る絵画というスタイルに投資、使った方がいい。まあ発展系の応用実践問題を考察するに、教授は使えるだろうけど、賢い友人を捕まえたり、それこそSNSでいいわけよ。だから、YouTuberは実践性であって、あまりに簡単すぎる教科書を教えるには適してない。ホント!教科書YouTuberとか大半は自滅するべきだよね。あー鬼滅の刃が読みたくなってきたなぁ。

 だから 日本語で読めちゃう時点で恵まれているんだから、素直に原典を1日で読んじゃえばいいわけ。

 まあ大半は受験勉強ほど理屈も暗記も少なくて、病人やファシストの書いたものだったり、ベタには大した内容じゃないんだし。パジャマ姿のまま、ニーチェとかハイデガーとかベッドに連れ込んで、素直に読んで感動しても、受験勉強のキツさに比べたら楽かもなぁ〜っていうのは、頭の片隅にあったのよね。簡単なんだから、いっそ教養として雑誌感覚の気まぐれで自意識抜きにチャラチャラ読んでればいいのよ。

 安易な暗記や理屈ぐらいで済むなら、徹底的に学歴競争や就活に勤しんで、答えが初めからポジティブに用意されているビジネス本を素直に読んだ方がいいわけね。

 哲学書の安易な要約本やYouTuberってたくさんいるけど、全部とは言わないけど、ほとんどがスカなのよね。というか、あまりに悪質。

 暗記や理屈だけだったら、簡単すぎるわけよ(笑)。表面だけなら、こんなに簡単な学問はないわけ。

 んで、知ったかぶれになって、ネット上だけの哲学部出身キャラが蔓延してるわけ(主体性が弱いから、常にいいねしてもらわないと自己を保てないんだろうけど、それなら健全にビジネス本キャラや宗教キャラの方が弱さに気づく分、めっちゃ強いわけよ。たかだがネットの雑魚どもの評価で哲学だとか大見得を切られても、しょうもない。もちろんSNSで発表するなと言っているのではなくて、視聴者ありきになりすぎた目配せばかりしているもしくは悪い意味で実存に拘泥する独我論者の時点でダメでしょう)。

 でも、哲学は本業の片手間でやるジャンルなのは歴史的にもそうだし、第一、暗記や理屈という世俗のルールで扱えないジャンルだからこそ面白いわけで、暗記も理屈も大事ちゃー大事だけど、特に軽薄に哲学が分かる!ってデザイナー的に過度に易しくなったものほど、まったく別ジャンルなのよね(第一、YouTuberやSNS自体がベタには軽薄なのは自明だし、権威が欲しいなら、初めから東大法学部へ行くべきで、哲学や芸術ほど権威からほど遠い弱者の探究はないとも言える。東浩紀やニーチェ、ハイデガーが強そうに見える?心安らかに見える?)。

 んで、ネットのスノッブの大半は、現実の受験戦争や就活とかで本当は勝ちたい大衆のくせに、そこでの苦労を味わたくないもんだから、本来において反世俗的な暗記も理屈も少ない哲学へ駆け込み寺のように駆け込むわけよ。

 冗談じゃないぜって言いたくなる。むしろ哲学は反世俗、自分の立ち位置すらぶち壊れるぐらいの主客を超えたところまで張り詰めて考えるもんだから、こんなに頭にくるし、むしろ最悪な科目はないわけ。

 いっそ世俗から逃げちゃうなら、開き直っている分、宗教の方がマシなわけ。

 というか、精神面だけで見た場合、世俗ー宗教の順こそ簡単な世界であって、世俗は自我を担保してくれるし、宗教は全体を担保してくれる。だけど、哲学には普及命題というキツさがとぐろを巻いているわけで、健全にビジネス本、健全に宗教でいいわけよ。

 グニャラグニャラって哲学キャラ気取ったり文学青年気取ったり芸術家気取る方が、そのジャンル自体のキツさと向き合わない分、ジャンルの性質におけるデミリットに復讐されちゃうと思う。

 だから、登録者数もいいねもわるいねも根源的に気にしていないし、徹底的に領分は意識するべきだと思う。

 むしろ、哲学の強さ、格好良さは、こうやって孤高をしっかりと貫きながらも、場合によっては大衆たちと馬鹿にし合いながらも語り合うブリリアントな余裕さが追求されるわけで、だからこそ彼らもいふいふと嘲笑いながらも、心の深層では畏怖してくれるわけです。

 もちろん批評だからこそ、ジャンル横断だが、ぬるま湯じみた相対主義の坊やたちじゃなくて、どこまでも突き抜けた先が果てしない絶望だった!という絶望という名の希望こそが、批評のポテンシャルではなかったか?

 グラムシも言うじゃないか。「英知においては悲観的であれ。

 意志においては楽観的であれ。」と。