コロナ、YouTuber、ディストピア。「東浩紀」可能性の中心

 自粛と炎上によって、感染者データを毎日さながらFXチャートのように、多幸症のように浴びる昨今。

 数式のデータこそが肉体を縛るキリストのようになっている昨今。

 天才批評家、東浩紀が20年前前後に提唱した環境管理型権力が、幸か不幸か今になってかなりアクチュアリな効果を及ぼしている。

 環境管理型権力とは、端的に言えば、工学的なシステムによって、人々をさながら動物のように管理していく権力のことだ。それは人間は動物なんだとある意味では意志は自ら放棄する代わりに、思考の自由を統計データやシステムといったモノへ信仰する、自由=権力がないまぜになった権力のことである。

論理的な数学を非論理的な宗教の代わりに見立てる

はたから見ると大馬鹿だが当の本人たちは賢いと思っているし、あまりに快適だからこそ到底、筆者も含めて抜け出すことのできない奇妙さなのだ。

 例えば、コロナ禍によって人々は自宅で仕事をできうる自由を獲得したように見えるかもしれない。が、環境の管理、環境情報に依存した自由は雇い主が24時間に及んで貴方がしっかりと手を抜かず働いているのだろうか?をあまりに厳密にチェックするということになるのだ。ここではプライバシーもないのだし、過度なデータ的管理は本当に生産性に及んでいるのかも怪しくなる。そして、ここで面白いのが、雇い主が悪であるのではなくて、これは工学的数的な処理における判断なので、責任が不在、あるといっても人格のないテクノロジー、SNS、システムが悪いということになる。運営者が悪だとしても、消費者が求めるものでもあり、彼らが炎上に加担したら、彼らこそ悪かもしれない(筆者は昔、逆転オセロニアというソーシャルゲームのフィールドワークから運営者と消費者たちによる環境管理型権力の方法を模索したこともあるが、これは後回しだろう)。

 極めて重要な点は、コロナ・ウイルスは、数学的に完全に処理できえない問題、身体の問題にも関わらず、さながらFXというギャンブルをする博徒たちのように統計データを日夜ずっとずっと見て、完全なる救済を待ちわびるという、ユートピアな、そしてディストピア、

数学という名の文系的な宗教が蔓延しているという何が何やら分からない状況が発生しているということだ。

 完全な答えを証明する統計データが予測不可能だと言っているのに、いや次こそ完全なる救済が起きるのだ!と毎日毎日毎日泣き叫ぶ受難を待ちわびる工学教たち。

 ここで更に問題なのは、文系だろうと理系だろうと、私だろうと貴方だろうと、

 たかだが人間の意見は無視されているということだ。

 だって、これは、数学的な統計データとあまりに宗教的な人間不信の奇妙な結婚であって、それこそがラカンの言う現実界、フロイトの言う無意識の深層の本質であって、表層的な人間と人間同士の論破したのしてないだのは、一ミリも議論に当たらないようになっているからだ。

 そもそもの前提として、「数学=100%の答えをくれる証明」の都合のいい部分しか見たくないという骨董無稽な文系たちが、理系ぶるという自己矛盾がそもそもの前提にあって、これをどうするかどうしないかが重要であり、各人のマクロと歌ったミクロ、そんな趣味、文物、様々なる意匠はどうでもいいということになっている。

 もちろん数式は便利だ。専門家は素晴らしい。

 自分で考えなくて、いい!

 近代化社会が、分業という棲み分け、簡単に言えば、文系と理系という枠組みを行なっている以上、分からないことは織り込み済みで通って当然だ。

 が、昔は、あくまで数式は手段に過ぎないよねという「あえて」があった。

 が、その「あえて」を忘れた理系とも文系とも似つかわない奇妙な動物たちが引き締めあっている。

 もちろんここでいう動物は比喩であり、なんだ大衆はバカじゃん論かと言われるかもしれない。

 そんな貴方こそ大衆だ。

 なぜなら、再三申す通り、ここで左翼だとか右翼だとか、そんな枠組みは統計データやショッピングモール、飛行機、SNS、ありとあらゆるサービスに依存している時点で、もう取り込まれているということなのである。

 肥大化したシステム、ウルベックの言う危険社会はまさに彼の予想を超えた日常レベルというコロナ、バイオハザードならぬ潔癖症のソーシャルハザードまで肥大化する形へとなったのだ。

 厄介なのは、人命を救うべきなのは、当然であることだ。

 だから、自粛して当然だろう。

 が、同時に、ボクたちは完全なる統計データという日常の神に頼り、この非日常の非合理を乗り越えられないのにも関わらず、いつまでも数式で証明しようと躍起に躍起にもがき続けて、これでは、単なる居直りすぎて、思考なんて完全になくなり、そっちによる今後の暴走、虚構と現実の境がなくなり、日本語すら読めなくなってくる人災の方こそ危険になってきているかもしれない。

 そして、ソーシャルゲームやYouTuberという人格のシステム依存は、もはやTVゲーム的な人格、ネットの自分こそがリアルであって、肉体を持つ自分はウソなのだ、もしくは境界線なぞないのだという浮遊した世界観を醸し出すようになってくる。

 一見自由に見えるが、ここもこの自由こそがパラドクスで厄介で、システムこそが、環境型権力こそが重要であって、そこで行われる勝敗、個性は、統計的確率論に誰でもよく、そして、システムの不全によってすぐ精神の不調を起こすような、脆弱な子供たちをヘヴンするようになっていった。

 ベタな意味での哲学なぞあるはずがない。

 というよりも工学的な知恵が必要になってきている。

 東浩紀→落合陽一というのは、生主(ニコニコ動画の語り手)とYouTuberの対立である同時に批判的継承である。

 生主はあくまでくだらない動物だよね〜っていうアイロニー、残念感がある。うんこちゃんや横山緑などだ。

 が、YouTuberはスターであり、偽りの自分を出すことは自明になっている。ヒカキンやワタナベマホトだ。

 どっちがいいかわるいかと言っているのではなくて、あくまで環境管理型権力を操作する運営者に泳がされる消費者だった人々から、環境管理型権力を消費者の力、炎上や演技などによって操作しようとする後期環境管理型権力へ移行している。

 前期環境管理型権力は運営者優位で、後期環境管理型権力は消費者優位だ。

 ここまでの論点を列挙しよう。

 1、コロナウイルスは環境管理型権力によって行われた。が、それは快楽のパラドクスで簡単には離せない。

 2、人文知こそほとんどがコップの中の嵐だ。人間一人一人に主体性なぞない可能性も今回の場合はある。

 3、しかし、後期環境型権力はユーザー優位のため、むしろ次なる問題が起こっている気もする。

 ここで、歴史批評家の時田氏がカオスフォレスト路で提唱した戦前民主主義というタームを補助線にしたい。

 詳しい説明は省くが、彼は帝国憲法の文献をかき集め、民主主義は初めから憲法に書かれており、戦争責任は憲法の責任というよりも、当時の大衆たちすらも熱狂して民主的に選択されたものではなかったか?と厳密に詳細に抉ってみせた。

 また、吉本隆明も共同幻想論を提唱し、一見逆の発想だが、国家という幻想に人々はすがっているということを厳密に詳細に抉ってみせた。

 ここで面白いのが、一見、右翼と左翼で逆の立場から言っているように見えるかもしれない。

 しかし、どちらも大きな何かにすがっていることを批判している点では同じなのである。

 論点を元に連結しよう。

 とどのつまり、人々が今求めているのは、憲法や国家の代わりとなるものが、今、「数学だった」ということなのかもしれない。

 もちろん更に徹底した数学的思考は間違えるはずはない。ただこういった悪い意味での中途半端な、ソフトな科学主義と奇妙に老成した偽善主義こそが、本当の問題をソフトディケートしてしまう。

 そして、ここで時田と吉本、彼ら二人と東浩紀のおっしゃる環境管理型権力が連続性があっても、異質なポテンシャルを放つのは、工学的に機械的なガラクタこそが、超越性を帯びた存在であって、憲法や国家とはまたどこか異質な様相をやはり醸し出すということだ。

 現実と虚構の境がなくなり、科学から魔法使いが生まれる昨今。

 アイロニーなのか、それとも、読み替えた上でのポジティブ線なのだろうか?

 否、それでも、ボクは人間の力を信じたいと思う。

 それは、偽善的な抽象論ではなくて、逆転オセロニアのフィールドワークで見てきた体験したことであり、カオスフォレストが後継し、行なっていることだ。

 完全な答えよりも、

 人間がちゃんと人間をしっかりと観察し、

 日本語を日本語だとしっかりと判断し、

 本当の友達がちゃんと作れて、

 自分に嘘をつきすぎて虚構と現実の境を見失わないような、

 登録者数やいいね、わるいねで人を数式だと判断し、一方で、そんな数式の群れから工学的に訓練された愛を受けとろうとする矛盾のような、動物農場のような!そんなことをしないような!

 そんなそんなちゃらんぽらんさが大事だと思う。

 東浩紀と落合陽一、KJ、

そして、コロナとYouTuber、逆転オセロニア、これらの状況整理とその発展をこれにて終了する。

 

【参考文献という名のブックガイド】