超面白いか面白くないかが、
めっちゃ重要だと思うんですよね。
今から哲学書と
学歴、
そして、理屈は
捨ててください。
過激なことを言っているようだけど、「これ」かなり重要なことだと思っていて、ゼロ年代のオタク批評がダメなのは作品自体に愛がないし、作品自体へ迫っていないことだと思う。
これ、めっちゃ大事なことだからね!
批評をやめよ!
哲学をやめよ!
理論をやめよ!
こんなに強調するし、圧倒的ドライヴに満ちた文体で急カーヴにドッドッと鬼気迫るのも、本当に頭をクリスタルに駆使する時にゼロ年代の批評こそ、理屈と歴史主義こそが、圧倒的にドライヴを落としていたことがあるんだと思う。
前回のゲンロン8がなぜダメか?でも話したけど、
理由は簡単っ!!!
感情のパトスッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き ってこんなにもエゲツないし、表現が圧倒的にポテンシャルで豊で旨みは案外こっちだったんで、精密に描写するとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!
うお〜!!!あっはっはっはっはっは!!!
要するに、すんげー単純な話。
現実のめっちゃすげー話やすげー人気作品っていうのは、理屈で見たら、ただ「好きね」で終わるようなもん。こんなものは理屈で説明できやしないさ、そうだろうよ?へいへいへい!?だからこそ、好きっていう素朴なことを煮詰めて考えるプラグマティズムが求められている気がするし、そこが文楽の読解、本当にゼロ年代がやるべきだった哲学性だと思う。
コミックやラノベ、アニメの愉快さとは、大好きっていう言葉の厳密追求という愛の分析哲学なんであるー。
ってわけで、圧倒的なドライヴによる文体、魂のエクリチュールが足りていない気がするんだよねぇ?そう思いません?
歴史なんかどうでもいい!
理屈なんかどうでもいい!
だけど…、キミのことはめっっちゃめっっちゃ好きだぁ〜!!!!!
っていう感受性の豊かさと、じゃあそれで上手く行くのかい?
う〜ん…、そうだよね、そうだよね…、難しいよね、難しいよな…、
ただ困難だよねを5年以上かけて時間を賭ける、この圧倒的なコミュニケーションへ迫る迫る鋼鉄のイルミネーション。
だから、漫画やアニメを語ろうと思ったら、むしろ、ゼロ年代的なノリで考えてはならない。
むしろ、理屈的な批評は海外芸術や経済学、社会学でやるべきで、この切り分けが大事になってくる、そうだ、ドライヴとロジスティック、どっちに優越があるんじゃあなくて、どこまでも作品へのリスペクトが大事になってくるんだと思うな。
しっかりと愛せ!愛せ!愛せ!
そんな徹底的な描写力がすんげー重要になってくるわけです。
ってわけで、舞城王太郎とその後継者?の君のことが大大大好きな彼女の方がすんげー素直な気がするのよね。
アディオス!
歴史を捨てよ!本当に頭使え!
登録者は不愉快!!!↓
真剣に1つ1つをエクリチュール含めて、観察して、考えろ。
たかが理屈ですげーと思うなかれ!
大嫌い!