雑魚は雑魚であることに
気づかないから、
雑魚なのである。
状況整理をするからって議論で勝ったからって、
じゃあ現実でどうするんだ?に彼ら強者キャラは逃げているだけだ。
確かに理屈で見た場合に、柄谷行人のNAMは失敗したり、三島由紀夫の自決は結果的に無駄死にだっただろう。そして、宮台真司の「あえて」は明らかに無理があるだろう。
だが、「逆に」考えないといけない。
途中まであんなに明晰だった、少なくともあんなにストイックに理屈すぎて厳しかった人間たちがどうして、
最終的にはコケてしまったのだろうか?もしくはリスカーになってしまうのか?彼らがそこに気づかないはずがないだろう。むしろ一番愚かだと分かっているのは彼ら自体じゃないだろうか?
一番大事なことは誰よりも時代の寵児として理屈屋と思われていた人間がアジテーター、極端なプラグマティストとしてほとんどが失敗してしまうかだ。
結果では失敗しているかもしれないけど、じゃあそれが何なのだろうか?
そこが一番厄介だけど、
誰もが目を離しちゃいけないところだ。
彼らのような醜態を晒さない分、理屈臭い自分たちは勝った勝ったと勘違いしているかもしれない。
が、むしろ彼らはただ誰よりも明晰すぎたのかもしれない。
結果的に彼ら3人らを断罪することで、周りは否定神学的に、否定の論理で勝った勝ったと言葉の中で言い張ることはできる。
が、やってみないと分からないし、100回やっても無駄だが1回だけでも必要なこともある。
奇跡を望んでいるわけでもなく、むしろ逆だ。
困難にも必要なことを行わないとならないこともあるし、その失敗がよくないことも承知だろう。
ただこの困難に逃げているのではなくて、そこの恥をわざわざ自ら言語化して、そのまま見せちゃうという態度はもう困難と心中していると言って同じだろう。
もしかすると、前半戦の理屈すぎた人生と、あんなに成功したのに失敗へ向かった中盤戦、後半戦は、実の所、彼らにとって同じ想像力でつながっていたかもしれない。
ポストモダンだゼロ年代だドゥールズだサピエンス全史だ暗黒啓蒙だ、
全てはフィクションだぁ〜!
然り。
クチで賢いらしい理屈を唱えるのはその通りだ。
じゃあキミはそんな自明さで
今更議論だけで勝って
「何が」したいんだい?
魂のプラグマティズムが
そこにない。
空っぽだ。第一、そんなに意味がないのなら、わざわざ論破する自分たち自体すら意味がないし、君ら自体が一番空っぽだ。なら、黙っていた方がいい。なのに、彼らは神経症のように、引き攣った笑顔で冷笑で退屈だ〜!と熱く夢中という自己矛盾で騒ぎまくる。
もしくは、現代なら、いいねやわるいねを集めて!
だが、しょせんは繰り返されたコップの中の嵐、小林秀雄の様々たる意匠である。
ヘーゲルやマルクス、そして吉本隆明や広松渉、彼らの人間は群れている上で真理を決めているのだを、それはバカな大衆たちだよと笑えるものなら笑えばいい。
そして、彼らはある意味では全く安易な答えをくれないだろう。
然り。
まさに馬鹿である。
が、じゃあ本当にそれらを論破できるのかよ?
ってなった時に、リアルへ向き合っていないから、傷ついていないし、テメーの脳髄が腐っていることが後から判明する。
もちろん先に毒を喰らうか、それとも後から毒を喰らうかだ。
だけど、後から地震やらコロナやら制度疲労やら、もしくは弟子の裏切りやら、腐った関係たちからの叛逆など、どっちみち、計算不可能性から逃げた、制御できない何かに復讐される。
痛みが自明も自明なら、そこから出発しないと何が何やら分からない。
愚かで結構。
が、君も後でそうなるだろうから?
ということがあるのなら、他人を論破して構ってちゃんし、依存している場合では、ない。
彼らの失敗は、そんな浅知恵では片付けられない。
もちろんヘーゲルやマルクスはもう論外レベルでオワコンだろう。が、彼らのアクチュアリは、なぜあんなバカが大受けして歴史に名を残したのか?と彼らを徹底的に冷笑した上で、その先を考えないとならない。
ネトウヨネトサヨがバカなのは自明だが、一方で斜に構えるのも、愚かなことだ。
ドント・フォロー・ミー!
着いてくるな!ということに着いてこい!
煉獄杏寿郎が元気なのに、目が死んでいて、サイコパスじみているのも、宿命を悟っている、炭治郎のような聖人でもないヤツが聖人をやるというパラドクスから発生している。
が、そんな絶望の煉獄から希望の炭治郎が発生するかもしれないし、無惨という鬼が炭治郎の家族を殺す絶望があったおかげで、皮肉にも無惨を倒すかもしれない宿輪の炭治郎が覚醒したかもしれないのだ。
この眩暈のする計算不可能性の嵐でキミは一人で立っていられるのか!?
だから、初めから煉獄は煉獄自体は既に終わっているし、彼が人気なのも、炭治郎のように自分は強くないと分かっていたのに、それを微塵も見せなかったことが返って味わいのある強さを獲得したということだ。
理屈 それは絶望だから、絶望だし、絶望だから絶望だから絶望だから…。
真実 それは絶望だから、希望なんだー。
批評が理系と違うのは、理屈が手段にすぎずその分楽な代わりに、
リアルに難しいのだという臨界で敗北と一度向き合わないとならないことなのだ。
崩れていく万能神話。
が、なぜか彼らは血だらけの顔で笑っていた。
冷笑ではなくて、熱く!
世界を良くしたいなら、ウダウダ言ってないで
よくしやがれ!