本は1000000000000回読みなさい。

 当たり前のことだが、1冊の本を100回以上読むのは当然だ。

 だが、このあまりの少なさは何も手を抜けと抜かしているのでは、ない。スノッブ的に誤読されるのだけは本当にやめて欲しい。なんだ、たった100回ぐらいか。そんなら、誦じてやればいいんだろ〜と受験勉強の要領でこなしてしまうかもしれない。

 ざけんな。

 逆なのだ。

 何億回、何無限回読もうと、

 どこまでも完全なる理解の不能なもの。

 それが、

哲学であり、

考えること

そのもの

なのである。

 何百回読んでも完全には分からないからこそ、むしろ受験勉強的ノウハウ、かつ、何百回読んで、細々と備えるのは当然のことなのだ。だから、遊戯としての受験勉強を提示している。なんだ、受験勉強ごときかよという批判、あんなに才人だった古田も終わったなという批判もたびたび見受けするが、確かに受験勉強ごときで哲学をクリアできるとは一ミリも思っていない。が、されど基礎。知っていて当然だからこそ、ここで学べる姿勢、態度は本物であるし、基礎ができねば、武士は戦えぬということなのだ。

 もちろん100回ぐらいの回数ぐらいでいい。

 だが、これもあくまでたかだが、100回だ。

単純に、人間という動物が、物理学と身体のアフォーダンスの影響を受けて、

 24時間しかないのだし、一生も短いし、身体の限界もあるし、ハイデガーなんて特にそうだが、戦争体験者じゃないと、奥の深さが分からないし、僕ごときの青二才では一生分からないだろう。

 だからこそ、心の奥底で、無限回読もうや!っていう腹の座りが重要だ。

 だが、ガハガハ!と笑い、スノッブになれるはずがない。

 どうした。同じ人間じゃないか。神でもない人間である以上、どんなに努力を駆使しても、結局のところ、読まない人間に100%の差をつけることは不可能だ。

 が、そこで、挫折を体験した人間は、自分の弱さ、限界を知るからこそ、足ることを知る。

 だからこそ、僕ごときはきっと歴史上に名を残さないだろう。

 が、そんな困難だからこそ、面白いし、21世紀人として、他の歴史上のサーヴァントたちの頭脳へ挑戦をぶつけて続けてやりたい。

 1冊の大事なる本は読めない緊急時も含めて、100回は最低でも読め。

 俺が信者になるなよと再三言うのは、荻生徂徠の古文辞学(中野剛志の日本思想史新論及び受験参考書、山川の日本史及び早稲田立教クラスの古文をやりなさい)、古来の江戸から再三言われ続けている当たり前である。信者なる読みの浅さは江戸の荻生徂徠より劣っている、江戸の才人が気づいて、なぜ未来人たる我らが気付かぬ?大事なことは、己の問いかけの回数である。

 何度読んだって、読み方、視点がおかしければ、一生文字を追っているだけで、

 真髄は

分からねーだよ。

だから、死に物狂いで読め、喰らえ!

 文章と格闘しろ。

 それだけの、それだけだ。