一応のところ、批評や哲学、ありとあらゆるジャンルに詳しいということに古田はなっているが、
むしろ批評が上手くないんじゃないか
とも思っている。
真剣な話しで理論体系では知っていても、実体験のなさで語るに落ちるものがたくさんあり、むしろうわぁ〜分からないことミッケ〜ってことの方が多い気がする。
例えば、ハイデガーは木田元の本を副読して、やっと「分かった気」になれるぐらいだ(分かった気にすぎない…)。
なぜなら、戦争を体験したり、死に近くキツさ、修羅場を潜らないと、ハイデガーの言葉は刺さらないし、一方でハイデガーの危険性というのがしっかりと分からない。っていうよりも、ドイツ観念論の大半はマトモにやったら、ロクにならないのが多く、正直のところ、僕はあまり詳しくない(絶対に詳しくなりたくない)のが現状だ。
確かに修羅場を潜りぬけたという点で、ハイデガーもニーチェも僕の場合は頭に入ってくるが、彼らのように戦争にハマったり、狂人に絶対なりたくない凡人、意外にも常識人のため、根幹レベルで同調したことが一回もないし、アレに果たして本当に同調できる人間は世界にいるのか?ニーチェを「しっかりと」読めている(だからこそ、良くも悪くもダメなのだ…)のは、落合陽一ぐらいじゃないかとも思う。それぐらいロクなものではない。
哲学や批評を勉強するのは、むしろ嫌いなことがどうして嫌いかをしっかりと知ることで、自己のことを深く知り、好きか嫌いかという幼稚なコミニケーションを超える状況理解へ進化することなのである。
っていうわけで、チャランポランだけど、本質を抉り出すウィリアムジェイムズのプラグマティズム、もしくは論理レベルで全てを体系化するジョン・オースティンの分析哲学が一番肌感に相性がいい。
また、年齢によって読んで分かる本や一生相手の見ている視座まで踏み込もうとせず分からない本も存在する。
例えば、東浩紀や宇野常寛までは文芸批評という小林秀雄、更に遡れば本居もり長からの伝統が息づいていたが、SNSによって部分的に知識だけは肥大化して批評や哲学を吸収する悪い意味でのコスパ思考が環境を作り、悪い意味でのプログラマー的思考で哲学や批評に詳しい人々が増えている。
が、数学や物理と違って、「論理体系だけなら」、哲学や批評は浅くて、稚拙で簡単だ。
なので、文系程度で論理ぶられても、ジャンル乖離であって、批評や哲学をしっかり理解していないし、当然、理数系のセンスも壊滅的だということになる。
文系はしっかり文系でやり、理系はしっかり理系の難しさでトライすること。
文系は歴史やコミュニケーション、なので、たとえ嫌いでも、だからこそ、どう対話するか?というある意味での体育会系やマグマのような強度が必要になってくる。例えば、プラトンは嫌いだな、じゃあどうして嫌いなのかをまずは好きなジェイムズのプラトン記述から、もしくはオースティンの記述からプラトンをまずは理解しようなどなど。
嫌いだからこそ、なぜ?なぜ?と嫌いなりの読み方が求められてくる。
落合陽一の本を日本で一番読んでいるぐらい、たくさん読んだが、こんなに個人的に好きじゃない落合陽一がどうして評価されているのか、そして、認めたくないが、どうして批評や哲学の伝統の後継者だと思われるのか?と思ったからだ。
なるほど、落合陽一は本質的には哲学や批評の人間だが、だからこそ、落合陽一はその枠に収まらないことをやりまくっているんだなと分かった。
僕が落合陽一が個人的に好きじゃないのは、今のSNS時代は、ベタに哲学や批評をやることはポスト・トゥールスの時代では不可能であって、やるとしたら、反哲学、反批評、他ジャンルと多様に群れることこそが、真の批評や哲学だと彼は哲学や批評自体を否定しながらも、真の批評や哲学を体現してしまったからだ。
僕ですら初めの頃は、この彼と今の環境を認めることはできなかった。
が、批評や哲学は歴史である。
実存主義がなくなり、マルクス主義がなくなり、オタク主義も以前よりは変化した。
ただ同じことが起きて、同じことが消えていくサイクルなのだ。
なので、言語レベルを変える必要が求められてきた。
が、ベタに落合陽一の真似をするだけではいけない。批評や哲学が面白いと思うからこそ、別のアプローチでいけないか?と思っていた。
このように、批評は哲学は歴史だ。対話だ。そして、無根拠だし、論争だ。
だが、屁理屈じゃないし、大衆のマス環境から切り離すことができない。
戦争の時代だったから、ハイデガーのような思想が生まれるし、SNSの時代だから、落合陽一のような思想が生まれる。
時代と正面切って、向き合い、直視することが批評であり、哲学であり、
結局のところ、当事者である本人たちも周りも、マジでうんうん…と悩んでいるはずだ。
だって、未来のことは誰にも完璧には分からないのだから。
というわけで、哲学や批評は真剣に分からないし、分からないことを分かることがソクラテスよろしく批評や哲学なので、分からないことが分からない!って分かるようになる素直さが必要な気がしている。
現代がポスト・トゥールスという表面上は楽に見える世界になっている。が、あくまで文化や批評、哲学は、言語化するという作業を、歴史を紡ぐという作業で、ポスト・トゥールスと言語化し、それ自体を相対化する。
なので、きっと、20年代のSNS文化が終わったら、あの時代は間違えていたと必ず次の若者たちに指摘される。
この繰り返しだ。ただ、あまりに安易な時代はいつまでも続くものじゃないし、批評自体は歴史的な、いや人間と人間の対話的なものだ。
「真剣に」「分からなくていい」。
(追記)
簡単な話しにして、このレベルなのだから、そもそも、反批評、反歴史的なポスト・トゥールスの時代においては、そもそもが、批評や歴史を知りたい人は努力量が他の時代と比べてかなり必要な不幸な世代ということは仕方がない。だから、あまり簡単にしちゃうことはできないかなぁと思いながらも、少しは簡単にしたいなとも悩む難しい時代ということなのだな。
ああ、真剣に分からない。