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一応、健全な範囲で、東大(テスト制)や宗教(明らかにセラピー)というものがあるのだから、哲学に絶対的な答えは求めてはいけないし、哲学に絶対的な答えを求める人々のコミュニケーションによる攻撃性はこっちとして疲れるものがある。
哲学に大きな答えなぞない。文学なぞにもない。
マルクスおよび国家よろしく世界の真理があると歌っていたら、ソ連は崩壊し、浅間山荘事件などの内ゲバで哲学が社会を大きく変えるんだということは一度は終わったこと。もちろんこの歴史性と向き合いながら、哲学や文学が好きだとほざくのはまだいいが、明らかに心の弱いが、かといって東大みたいに強い立場から努力もできないし、かといって、宗教みたいに明らかに弱い立場に立ちたくないし、そんな自己中心的な人々が最後に、哲学や文学、芸術を権威化して利用しようとするという魂胆、空気を随所見てきた。
が、哲学や文学、芸術は、本質的に救ってくれるものじゃない。
だから、カオスフォレストは宗教や権威とは無縁であると再三言っている。
宗教や権威がダメなのではなくて、真理を探究するスポーツ的なものであって、役に立ちはしても、心の弱さ、努力のしたく自分の弱さ、そういったものを埋めることはできないし、逆に言えば、どうして哲学や文学、芸術が賢く見えるかと言えば、東大や宗教と違って、精神的な負担がすごいかかる困難さが一番あるジャンルなのだ。東大は東大で困難だが、あくまで理数的なかつ体力的なものをメインで問われる。宗教は言わずもがな。そして、哲学は最も見たくないものまで見ないとならない、だからこそ、難しいジャンルなのである。
逆に言えば、哲学なんてやらなくても生きていけるし、文学なんてやらなくても生きていけるし、芸術も最悪なくてもいい。
わざわざ精神の闇まで潜る必要なぞない。だから、批評はなくてもいい。みんながやる必要がない。
でも、だからこそ、本当の意味で論争する哲学徒や文学、芸術は尊敬される(ひろゆき的なものではない)。哲学だとかは心の強くなる以上の役割はなくて、いくら役に立っても、心の弱い人は扱うことは一切不可能なのだ。
しかし、東大受験的なヒエラルキーから勝敗以前に逃げ出し、かといって中途半端なプライドが邪魔して、オンラインサロンや宗教を愚劣し、哲学や文学、芸術を楽できる駆け込み寺と勘違いするスノッブが後を絶たないかもしれない。
が、大きな勘違いだ。
いつか必ず表面的な哲学用語の振り回しは、その哲学や文学、芸術対象から見放されることが必ず起きる。本来、コンプレックスや見栄は、東大、世俗の権威競争、もしくはその枠に入らない宗教が根源的な役割を担っている。というわけで、カオスフォレストもデカルトもカントも直接的には一ミリも救うことなんかできない。
批評は見る方にも「考えさせる」という苦痛の伴うものだ。
だから、別にやらなくてもいいし、ぶっちゃけ哲学や文学、芸術は世間的に見て、コスパの悪いくだらないものであるという事実は自明だろう。逆に言えば、その敗北をハッキリと認めた上で、もう本当にやりたかった世俗や宗教へ目を向けるべきだろう。何も全部が全部、世俗や宗教が悪いわけではない。根幹が彼らの場合、救済だが、批評は違うのだ。
スノッブは基本的に宗教を笑うけど、根っこが一番の宗教徒のため、本当にどこまでも振り回されてきた。が、そんな破綻した自己矛盾で他人をいくら論破しようとしても、いつか「哲学や文学は救ってくれない」という当たり前の現実に復讐される。
カオスフォレストは今後はハッキリとスノッブの相手は一切しないことを断言する。