イラストが描けないとイラストは語れないけど、批評はどこまでも受け身だよね問題

 美術評論をするときにつき回る問題。

 美術評論を読むより、そのイラストそのものを見た方がいいんじゃーねーか?問題。

 別段そんなに巧くないけど、最低限はイラストはイラスト描きを最低限した上で批評するべきだと思う。

 たとえば、君の名は。は簡単に評論できるけど、lainを評論するっていうのはかなり難しい。

 どっちが上か下かではなくて、評論に向いている作品と向いていない作品があると思う。

 特に、コミニュケーション、歴史や世代論、手法だったり、世の中を完全に論理的に表すものだったら、言語化しやすいけど、非コミニュケーション、非歴史や普遍論、具体だったり、世の中を完全に表しすぎて、論理的には表現しづらいヤヴァイものを言語化しないといけない場合に、もう評論で訳したり、発展する必要はなくて、その作品単体だけで直感的に判断していくしかないこともある。

 逆に言うと、美術について語ろうと思ったとき、言って語らずー、言語言語しないでどう言語化していくか?という危ない綱渡りのような語り方が求められているような気がしている。

 ただ作品単体だけでは成立せず、どうしてこんなに面白いものがそもそも発生したのか?んで、他にもスゴいものが生まれるんじゃないのか?と大きなウネリとなって広がっていこうとするときに、美術評論の目線は必ず必要になると思う。

 美術評論のための美術評論は面白くなく、本当に対象となる作品を超えるぐらい愛や分析力があるのか?が足りない。別に巧くなくていいから、ちょっとは実践を齧るだけでも、見えてくるものがたくさんある。製作する時の肌触りだったり、時間の流れだったり、空気だったり。直感的な複雑すぎるリアルな体験がかなり本質を突いているのに、答えありきの評論だと、作り手の多様な目線を除外して、あまりに素っ気ないものにしてしまう。

 もちろん要約したり、言語化するのが、批評の役割だ。

 だけど、批評が批評対象以上に面白くなろうと思ったら、ただ要約したり、ただ言語化したりするだけではナニも生まない。対象を具に分析しながらも、オリジナリティを出したり、あえて過剰に違う解釈をぶつけることで、本来あったポテンシャルをもっと遠くへ飛ばしてやることが批評には求められている。

 そもそも面白い作品、イラスト、音楽などを見た方が手っ取り早い。

 でも、そこでどうして「批評」という回路を使ってわざわざ遠回りして見るのか。

 遠回りをしたからこそ、「何かがあるのだ」というプラスを深く意識しないと、批評は失敗する。

 そのプラスを当てはめていく模索作業をカオスフォレストは続けている。

 

 

 

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