「ゲンロン8大炎上」ゲーム批評史。東浩紀の総括を代わりにする。ゼロ年代批評の大失敗。ゲームオタクは文系的な学問にならないわけと真のゲーム批評とは何か。

  アンチだと思われるので、先に言っておくが、アンチなのではない。ただゲーム批評やオタク批評を現代でやるにはどうすればいいかを彼らの内ゲバや炎上から代わりに反省し、次へ繋げたいだけだ。

 東浩紀さんは頭は「感覚的には」賢いと思うけど、理念が先走りすぎちゃっていると思う(理論が分かっていても、理論を素通りしてしまう暴走車)。だから、東浩紀というカリスマがコケているミスっているところは結構あって、彼というカリスマだけに頼ったゼロ年代批評、0年代のオタク批評だから大失敗したように見えてならない。

 例えば、ゲーム特集のゲンロン8大炎上事件がそうだ。

 ゲーム雑誌のファミ通のライターたちが東浩紀さんたちの恣意的な解釈によるゲーム批評歴史観にブチギレたという話し。

 そもそも、「ゲーム」を批評するのまではいいけど、ゲームを「理論的な歴史」にするのは、本当にゲーム自体を愛していたり、ガチゲーマーと言えるのかということになる。ゲームは確かに論理的な要素が大きいが、あくまでプログラムやアルゴリズムの範囲であって、むしろ体制的な政治とは違い、あまりにひ弱な脱政治的だし、幼稚なものだ。しかも原理上、ただ消費者はお金を払い、創作者はプログラムを作るというそういった一件優しいようでいて、これだけのコミュニケーションにほぼ限られている。僕が逆転オセロニアのプロデューサーKJを絶賛したのは、こんな脱政治かつ脱社会的かつ幼稚なゲームユーザーたちを育てて、しかもしっかりと対話していたからだ。ただそんなKJでも何度も炎上したし、人生をかけて、3年間も時間を費やし、全国を回り続けた。それだけの苦労が無ければ、あんな彼らと対話なんて成立するもんじゃない。僕は彼の影響を受けているが、ゲームユーザーという場所で対話をしっかりすることがどれだけ大変か、これこそが批評の実態だ。やや異なるが、YouTuberもその1つだ。

 繰り返すが、ゲームをしっかりプレイする快楽を知るユーザーが本当に批評をすれば、あんなゲームを歴史にしてしまうことにするのは危険であることに気づくはずだ。また戻るが、そもそもゲームがその時代、その時代の世代で閉じられやすいものであり、そのメディアの限界であり、ポストモダン的に冷笑するつもりで選んだのかもしれないが、それは炎上必死であった。

 もちろんここでちょっと補足するとなると、ゲームと歌わず、「シナリオゲーム」と「アニメ」と唄えば、まだ良かったかもしれない。名作のアニメやシナリオゲームなら、どんなに古くてもまだ見てみようかなという話しになる。なぜなら、物語は原始的なメディアで、であるからこそ、時代時代によって作画以外やセンス以外は古びないし、むしろいい意味で、作画やセンスの古さが差別化になって、「歴史的にも」楽しむことができる。

 しかし、マリオブラザーズやパックマンのような技術優位のゲーム作品は、テクノロジーによる快楽のため、時代とともに古びてしまう。ガラケーを今わざわざ使いたい人はいないだろう?もちろん歴史的にガラケーを振り返るのは面白いが、ガラケーが今革新的な影響を与えるとは純粋にはあり得ない。

 文系的なもの、文化は歴史化に異議があるコミュニケーションの強みだが、理系的なもの、技術は絶えず更新されるコンテンツの強みなのである。

 ファミ通はそこがゴッチャであるし、シナリオゲームはあくまでゲーム内のサブジャンルにすぎず、かつ、アニメ化することで有名になるというある種の誤配、交通、批評性は高いものばかりだが、それは「ゲームもどき」でもあって、ゼロ年代的なイデオロギーむき出しの主観モロ出しにすぎなかったのである。

 論点を整理すると、1、ゲームは幼稚だし刹那的なものなので、ポストモダン的に冷笑するのではなくて、KJのようなコミットメントじゃないと、嫌われないのが難しい→2、よって感覚的なのものなので、歴史という論理にするのは向かない→3、よって論理的に積み上げるコミュニケーション・メディアはシナリオゲームにほぼ限定されたものである。

 なにもゲーム批評が不可能とは言っていない。安易に哲学的な、そして文系的な歴史的解釈で積み上げる思考で考えるにはあまりに向かなすぎるメディアなのに、ゼロ年代批評の目線が強すぎて、炎上してしまったのだ。

 できる範囲でいいから、絵を批評するなら、絵を描き、本を批評するなら、本を書き、恋を批評するなら、恋をやはりしないと難しいこともよくある。特にこういったゲームという限定されたメディア装置ならなおさらだ。観念やイメージの世界では意味もなく、体験や日常の視座から思考しなければ批評は批評にならない。

 批評は批評でできているのではない。批評は日常の延長の体験からできているんだ。

 逆に言うと、「幼稚なまま開き直る」ゼロ年代批評の限界が垣間見える。あくまでキッカケであって、そこを体系化するものではない。幼稚には幼稚の強さがあったのに、それが体系化、大人になったらおしまいだ。

この現実から出発しよう笑(冗談です笑)。

 

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