仕事とはなにか?

 結局のところ、長く続く仕事ってことを考えたときに、どれも大変なことは自明であるが、1年より続けるには、好き以前に苦手ではないかどうかな気がする。

 仕事選びで、よく好きか嫌いか、もしくはブラックかホワイトかという話はよく聞かれるが、そもそも文系的な記号論で物事を即断しすぎではないだろうか。簡単に言えば、大学教授になると考えた場合、一見頭が良さそうに見えるが、授業をしたり、授業の準備をしたり、試験監督をしたり、業界で決められたジャンルの論文だけを書いて、そうだ、大学に関わる雑用全般をやるから、教員を維持できる面もあるだろう。ただ好きなことを研究しているのではなくて、ある種、アカデミックの土建作業ができるかできないかということが求められているような気がする。また編集者もそうで、今ならSNSで情報発信する作業もやったり、電話対応もやったりと、確かに編集業務の周りの仕事だが、ある種のジャーナリズムの土建作業ができるかできないかということが求められている気がする。

 また大半において採用する方も採用される方もそんなにやる気はないし、クチで言うほどやる気も幸せもない。だから結構のところコネや学歴だったりするし、採用される方もああそれでいいのだと思っている節が感じられる。

 だけど一概にそれらが悪いとも思えない。むしろリクルートによってブランディングされる採用システムが生まれたことで、もともと良くも悪くも現実味があってどうしようもなかったものに、過度な建前が追加されただけなような気がされるし、採用される方も共犯関係的にそっちの方が楽に見えるのだろう。

 戦後のマクロ思想は実のところ、官僚ではなくて、マーケーターや広告代理店が構成してきたのかもしれない。やりがいというか、最低限の文化というか。戦前は戦前は悪い事はあったので、これはこれで仕方のない事だろう。

 結局、好きか嫌いか以前に、生きれるか生きれないか、向いていないか、向いているか、こっちの方が大事な気がする。好きな事はあくまで他人がやるから好きなわけであって、自分がやるとなると、大変なこともあるだろう。だったら、他人にやってもらえばいいのだ。得意なこと、苦手ではないことを優先するべきかもしれない。

 ただ働かなくてもそれはそれで仕事のような気もする。評価経済後の社会は、YouTuberや歌い手、大学生、素人、アルバイトが信用を獲得するパターンも増えている。現在は、誰かの擬似的な友達や恋人になってくれるということに需要がたくさんある。セックス以前に、本当に仲の良い友達がそもそもいないということが、この評価経済のパラダイムは煽っている。貨幣経済時代なら、他人との友達や恋人との親密度は気にしなくてよかったが、客観的に測られるようになってきたことで、今まで気にはしなかった友情や恋愛が量的に気になるようになっている。そうなると、逆転現象が起こり、本来、家やプライベートで処理されていた温かいものこそがデジタルに仕事となり、今まで冷たいものと見られていた仕事の方がアナログ的に他人の目線を仕事内でしか考えなくてよず、ある意味で楽かもしれない。

 取りとてもなく話してきたが、仕事とはお金の問題というよりも、貨幣にしろ評価にしろ、対人との政治かもしれない。悪いことばかりではない。他人へ奉仕しなければ、この近代社会のシステムを維持できないし、もしくはその闘争がなければ、何が何やら分からないからだ。

 

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