五反田のGOJIRA「東浩紀」をめぐる冒険。なぜ人格者という雑魚は彼に勝てないか?

 東浩紀は変態だ。

 たまったもんじゃない。五反田を歩く街の人々は彼の足音に毎日驚かされている。ドン!ドン!ドン!

「ああ!来たぞ!五反田のソクラテスが!」

 赤ん坊の入ったベビーカーなぞ木っ端微塵に捨て去る淑女たち、ワン!ワン!ワン!街中を徘徊するようになったトイプードルたちの群れ!オンギャ~!とうとう赤ん坊たちも泣き出した。

「…」

途端にドトールカフェにいたアップルを操作するサラリーマンたちも、目を光らせ、アップルを畳み、いいちこ、日本酒をポケットから取り出し、哺乳瓶のようにチューチュー飲み通しながら、寂れた目付きで彼をみる。

 AZUMA、AZUMA、AZUMAー。

 そうだ。ディオニソス神殿、五反田こそが、哲学王にはふさわしい。

 AZUMAー。

 人は彼を見るとき、GOJIRA、怪獣を連想される。実際のところ、淑女もクソ赤ん坊もクソ犬もサラリーマンも表面上は素通りするが、内心はレトリック通りだろう。

 昼間から酒をグデングデンに飲み通し、エロゲーを泣きゲーだと恥ずかしげもなく大声で!公共で脱構築し、最近は小物かつフェミニンなガキばかりになったが、謎の親衛隊を引き連れて、風を切るかのように五反田に君臨するドラゴン的事象ー。

 それがAZUMAだ。

 皮肉にも彼の人格批判は、ある種、最大の誉め言葉になってしまう。なぜなら、変態だからこそ、エロゲーに文学性があるだとか、公共の場で言ってしまう加害の勇気があるからである。あまりに哲学や文学に忠実だが、彼のように加害を直視したくない凡人は彼の言語化に感動しながらも、偽善の皮を剥がされ、イライラしてしまう。

 しかし、文学や芸術というミクロなコミュニケーションメディアは、根源的に、差別や搾取を内包している。僕たちは彼に呆れながらも、彼のテキストとトークに魅了されるのも、彼そのものが哲学や文学、芸術のエグい部分を貫徹するまでストイックだからである。

 才能が欲しいのか、それとも、人望が欲しいのか。

 東浩紀を誉める方も貶す方もある意味で的はずれだ。

 昼間から酒に溺れるパワハラ怪獣AZUMAは、どっちを選択し、どっちを捨てるかを僕らへ投げ掛ける。

「宇野くん~!!!!!!!!」

 いいねも友人もいるということは、才能がないのだと気づいたほうがいい。

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