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結局、究極的に言ってしまえば、橋本環奈と木村拓哉的なものがあれば、なんとかなるでしょう。
しかし、そこで求めているものが、単なるポルノ、恋愛や友情ばかりだとしたら、
ぶっちゃけ家族や周り、もしくは自分自身で自炊しろと思ってしまう。
だけど、家族にも愛されず、周りの恋人からも友達からも本当の意味で愛されず、まあ自分自身のせいもあると思うけど、自分で自分すら愛することもできない人間たちがたくさんいるのだとインターネットを見ているとよく分かる。
ただし、そもそも、自分の周りにいる家族や友人、恋人、そして、自分自身。
そのレベルからすら逃げている時点で、もしくは戦いを避けている時点で、本当の愛情も分からないし、本当の友情も分からないし、本当の自分すら裏切っているのだ。
そんなのは、ひろゆき的な利己主義ですらない。単なる甘えだ。
インターネットの数による支持は、単に、落ちこぼれの人間がたくさんいて、そいつらに単に依存させているだけであって、いっそ開き直っている分、昔からあるキリスト教や仏教教の方がマシだし、ヒカキンの方が清々しくて立派だろう。
大体、年上世代から知られていないし、ネットの単なる若くて、落ちこぼればかりを先導しているだけでしょう。
自分の周りから逃げて、ネットで数がどうこういっても、拉致があかない。
印象論は承知だが、最近の若手芸能人の相次ぐ自殺を見ていると、三浦春馬と母親の関係を見ていると、
結局のところ、数の動員は、単なる現実逃避でナニも一ミリも本質の愛情から逃げているだけだと分かる。
表面的な偽善を叩いたのも、結局、「数による宗教」、いや宗教にすらなってないゾンビ的な擬似宗教に左右された、オウム真理教に近いファシズムだからである。