紙の宮台真司や東浩紀が死んで、木本常務の時代がくる。

 YouTubeをやってみて改めて分かったことだが、デジタルとアナログの境が無くなっている。

 たとえば、ビジネス本の要約動画が5万再生もしていて、もちろん広告にもなるが、もはや読書とは、見動画でもあり、見動画して読書したり、読書して見動画するようにアナログとデジタルは混ざっていく。

 本の形式自体が、インターネットの配信と連動せざるおえないし、いくら広告になっても、マクロ・ユーザーである大衆はもはや無料の動画、無料のTwitter、無料のドラマアニメばかり見て、一生を終えるだろう。

 もはや質とは何かを改めて考えないといけないし、大衆が消滅するということは、コンテンツの質も変化しないとならない。

 10年代の臨界までは、大衆作品こそが、中身のある作品を作れる息吹きがあった。アニメである。ウロブチや奈須きのこ、竜騎士07といった良質の文学者=哲学者たちが量産されていった。彼らの資質以上に、アニメ環境が文学を生む土壌があったのだろう。

 しかし、今のアニメに、文学を生む土壌を感じない。単純にまどマギやひぐらし、フェイト、半沢直樹といった作品は未だに表れず、まだそれらの遺産で食っている現状だからだ。あくまで大衆的で、かつ急所を指すように現代を象徴する文学のことだ。

 今、文学、哲学、批評のフロンティアはどこにありんだろうか?

 1つは、インターネットのYouTube、YouTuberだと僕は思っている。詳しい説明は省くが、苦肉にも、坂口章のような不謹慎YouTuberだ。まあこれは、文学なきことを告発する形であり、まあオタク以上に劣化している5は否めない。

 vtuberもポルノ性が強く、物語がない。

 東浩紀はシラスに引きこもり、哲学仙人のように現実逃避をするようになった。オタクの限界だ。

 宇野はまだ大衆とのつながりを諦めてはいない。

 動画で本当に思想を伝えることが可能か?

 1つのヒントは半沢直樹の演技過剰さだと思う。

 評論や小説は閉じられた文字だからこそ、神秘性がそこに宿る。だが、今のインターネット優位は現実のライブ性が強いため、文学、理想、哲学を紡ぎにくい。

 だが、演劇は、違う。私は半沢直樹に出てくる木本常務が大好きだ。迫真の演技で感情がヒシヒシと伝わるからである。

 そうだ。哲学や批評はもはや身体で表現する時代へスライドしている。

 演劇こそが、今のインターネットには必要だ。

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